下層社会の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 14:36 UTC 版)
「神戸市のスラム問題」の記事における「下層社会の生活」の解説
スラム住民によって代表される都市下層民衆の理想的生活形態は、女房、子供を夫が養うことのできる世帯の創出であったが、実態は雇用の安定しない「日銭稼ぎ」で、女房は言うに及ばず、子供も労働に加担しないと生計が維持できないほどであった。地域内には、行商人が開く仮設市場や一膳飯屋などがあり、売れ残りの安い魚や野菜などが売られ、不安定な日銭稼ぎの労働者たちの生活を支えるに好都合な仕組みができ上っていった。しかし、仕事にありつけない者はその日食べる米にも窮するありさまであった。スラムでは5軒、10軒単位で長屋の単位が形成され、米の貸し借りが行われたり、家主・地主の地域の顔役に援助を頼むなどの助け合いが行われるようになり、「共同主義」と呼ばれ、地域の強固な絆となっていった。 こうした下層社会の生活者らは日露戦争後の都市民衆騒擾の主人公となる。1905年(明治38年)9月、日露講和条約に賠償金がないことに不満を抱いた民衆が蜂起し、東京をはじめとする大都市で騒擾(そうじょう)を起こした。神戸では民衆が湊川神社の伊藤博文の銅像を倒し、引き回すという激しい騒擾が繰り広げられた。騒擾の先頭に立ったのは行商人や「日稼人足」であった。大正2年2月には第1次護憲運動の渦中、立憲国民党から立憲同志会に鞍替えした代議士小寺謙吉の邸宅が多数の民衆に襲撃される事件が勃発。騒擾には職工や学生、行商人、日稼人足などが参加した。 騒擾の背景には下層社会の生活難があった。日露戦争後の深刻な不況に1911年(明治44年)には米価高騰が重なり、8月には「紙屑長屋」「蜂の巣」などと呼ばれた棟割長屋住人の中には絶食者が出始めるに至り、地域の共同体が破綻せざるを得なくなり、家主・地主の援助も滞りがちとなり、民衆の不満が騒擾という形で爆発した。
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