日本福祉党としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 14:38 UTC 版)
「日本福祉党」の記事における「日本福祉党としての活動」の解説
1995年6月26日 東を代表、松崎を会計責任者に「日本福祉党」が結党される。この時点で有田正憲~福田拓泉系の人士が党役員から姿を消し、「老人福祉党」との登記上の連続性が切れた。 同年の第17回参議院議員通常選挙に際しては、安西愛子を党顧問に迎え、東京、神奈川、愛知、大阪の主要選挙区に計9名、比例代表区には東の1名のみを擁立した。比例区の政見放送には東のみが登場し、手話混じりで「故郷」(文部省唱歌)を独唱したが、全員落選。得票率は1.03%へと向上し、供託金返還ラインに寸前まで迫る健闘を見せた。 1996年 「10周年記念大会」(政治資金パーティー)を挙行。安西愛子の他、日野原重明、田中真紀子らが祝辞を述べた。 同年の第41回衆議院議員総選挙では、政党・自由連合と政策協定を結び、自由連合公認・日本福祉党推薦で東(千葉3区)、松崎(山梨3区)ほか2名が関東の4選挙区から出馬したが、大量の候補者の中に埋没してしまい、党独自の政策の十分な浸透を図れなかった。 1998年の第18回参議院議員通常選挙では、民主党、自由党、新党さきがけ、社民党との連携を模索し、特に民主党とは政策協定締結寸前まで漕ぎ着けながら、破談になり候補者擁立を断念。 2000年の第42回衆議院議員総選挙では、松崎が自由連合の公認候補として東京14区から立候補しただけに留まり(但し選挙区得票率は過去最高の9.4%)、党勢は縮小。 2001年の第19回参議院議員通常選挙の直前に、資金不足による候補者擁立断念に至る経緯をウェブサイト上で声明し、非拘束名簿式の参議院議員選挙制度と、供託金引き上げ、知名度に頼ったタレント候補の乱立を批判した。この背景には自由連合との決裂があったものと思われる。 その後、具体的な立候補活動は見られず、ホームページも更新されていないが、2007年の第21回参議院議員通常選挙の段階では、本部事務所への電話連絡も可能な状態である。
※この「日本福祉党としての活動」の解説は、「日本福祉党」の解説の一部です。
「日本福祉党としての活動」を含む「日本福祉党」の記事については、「日本福祉党」の概要を参照ください。
- 日本福祉党としての活動のページへのリンク