日本ホーリネス教会復帰
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1920年4月に、米田は「リバイバル後の記」を発表する。そこでは、アメリカの浅薄な伝道者がリバイバルを請け負っているように、リバイバルという用語を乱用することに対しての冷静な抵抗感を吐露している。しかし、12月30日には、「リバイバルの年を送る」という大正のリバイバルの回顧を書いているが、そこでは、「もっと広いリバイバル」を待望する主旨の内容が書いてある。 1924年4月のホーリネス大会で『きよめの友』(旧、焔の舌)主筆を中田重治から受け継ぎ、1933年の分裂まで主筆を続ける。 後に聖書学院の教授になり、新約聖書を教える。1925年日本ホーリネス教会が財団法人になった時に、中田重治、車田秋次、小原十三司、と共に財団法人の理事に選出された。1932年にホーリネス教会第三総会で板垣賛造と共に書記に選出され、その総会で再び理事に選出された。1932年6月9日に米田は「思想上の脱線を防げ」という論説を『きよめの友』発表した。それは、一般信徒への独善的な聖書解釈を戒める内容である。駒澤大学教授の池上良正はリバイバルの高揚の中で、日ユ同祖論を強引に主張していた中田監督夫妻への牽制であると言う。 1932年、米田はきよめの友の連載していた聖書日課を「旧約聖書講解」(上巻、律法歴史の巻、下巻、詩歌預言の巻)として発行し、また、新約聖書全解を出版した。小池章三の『リバイバルのさなかに-男子ホーム脱線のきざし』によると、昭和のホーリネス・リバイバルの際に、1932年6月頃、聖書学院では「主の再臨を求めるものは、冬物衣類を捧げて祈るべき」「わ藁屑は焼くべきだ」と言って、衣類、書籍を焼いた。中田重治や米田豊の著書も、焚書された。この行動の背後には舎監の中田あやめ監督夫人の影響があったと言われる。
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