日本ホーリネス教会離脱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:40 UTC 版)
1913年に笹尾鉄三郎が辞任したことに失望した米田は、バークレー・バックストンに三度目の来日を機に東洋宣教会を去り、神戸に滞在していたバックストンの秘書になる。バックストンが英国に帰国した後は、長崎市出島メソジスト教会(長崎銀屋町教会)の牧師として赴任した。 1920年1月25日より2月1日まで長崎のメソジスト教会で開かれた純福音宣伝大会に中田重治と柘植不知人と小原十三司が参加したときに、当時メソジストに所属していた米田は中心になって活動する。このことがきっかけになり、1920年3月に7年ぶりにホーリネスに戻る。そして、聖書学院の教授になり、また日本ホーリネス教会深川教会の牧師になる。
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