新府城の築城と武田氏の滅亡
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「新府城」の記事における「新府城の築城と武田氏の滅亡」の解説
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)において、武田方は織田・徳川連合軍に大敗し、勝頼は長篠敗戦後に領国支配を強化する。『甲陽軍鑑』によれば。天正9年(1581年)3月には御一門衆で甲斐河内領・駿河江尻領を領する穴山信君(梅雪)が勝頼に対し、新たな築城を献策したという。 一方、史料上の初見は「長国寺殿御事跡稿」(真田宝物館所蔵文書)で、天正9年(1581年)正月21日に、武田家臣の真田昌幸が配下の国衆に人足動員を命じたものとされる。「武州文書」によれば、同年9月に一応の城の普請は完了したという。このため、穴山信君の献策は天正8年(1580年)7月のこととする説もある。 この書状を根拠に新府城の普請奉行を昌幸とする説もあるが、この説は戦後になって唱えられ始めたことが指摘される。この書状では昌幸は勝頼の命により麾下の諸将に人夫動員を通達したものに過ぎず、昌幸が普請奉行であったとする見方を慎重視する説もある。なお、この書状は『長国寺殿御事跡稿』に収録されているが、近年原本が発見されている。『長国寺殿御事跡稿』と原本では同様に宛所が欠如しており、『長国寺殿御事跡稿』では宛名を出浦対馬守の子息で松代藩士の昌相と推測している。一方で、『君山合偏』でも写本を掲載し、宛所は大戸浦野氏であると推定している。江戸時代にこの文書が出浦家に伝存していることから、出浦昌相が武田氏時代から真田氏の与力であったとする説もある。 また、新府城近くには字名として「隠岐殿」の地名が存在し、戦国時代末期の館跡である隠岐殿遺跡が所在している。「隠岐殿」は真田昌幸の実弟である加津野昌春(真田信尹、真田隠岐守)とする伝承がある。 築城は天正9年(1581年)から開始され、年末には勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城へ移住している。 天正10年(1582年)、信濃での木曾義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵するが、織田・徳川連合軍に阻まれて帰国。織田軍はさらに甲斐国へ進軍し、勝頼は3月には小山田信茂の岩殿城に移るために、城に火をかける。勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(大月市)で信茂の謀反にあい、天目山(甲州市)へ追い詰められ武田一族は滅亡する。
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