新府城の築城と武田氏の滅亡とは? わかりやすく解説

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新府城の築城と武田氏の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 19:06 UTC 版)

新府城」の記事における「新府城の築城と武田氏の滅亡」の解説

天正3年1575年5月21日長篠の戦い設楽ヶ原の戦い)において、武田方は織田徳川連合軍大敗し、勝頼は長篠敗戦後領国支配強化する。『甲陽軍鑑によれば天正9年1581年3月には御一門衆甲斐河内領・駿河江尻領を領する穴山信君)が勝頼に対し新たな築城献策したという。 一方史料上の初見は「長国寺殿御事跡稿」(真田宝物館所蔵文書)で、天正9年1581年正月21日に、武田家臣の真田昌幸配下国衆人足動員命じたものとされる。「武州文書によれば同年9月に一応の城の普請完了したという。このため穴山信君献策天正8年1580年7月こととする説もある。 この書状根拠新府城普請奉行を昌幸とする説もあるが、この説は戦後になって唱えられ始めたことが指摘される。この書状では昌幸は勝頼の命により麾下諸将人夫動員通達したものに過ぎず、昌幸が普請奉行であったとする見方を慎重視する説もある。なお、この書状は『長国寺殿御事跡稿』に収録されているが、近年原本発見されている。『長国寺殿御事跡稿』と原本では同様に宛所欠如しており、『長国寺殿御事跡稿』では宛名を出浦対馬守の子息で松代藩士の昌相と推測している。一方で、『君山合偏』でも写本掲載し宛所大戸浦野氏であると推定している。江戸時代にこの文書が出浦家伝存していることから、出浦昌相武田氏時代から真田氏与力であったとする説もある。 また、新府城近くには字名として「隠岐殿」の地名存在し戦国時代末期館跡である隠岐殿遺跡所在している。「隠岐殿」は真田昌幸実弟である加津野昌春真田信尹真田隠岐守)とする伝承がある。 築城天正9年1581年)から開始され年末には勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城移住している。 天正10年1582年)、信濃での木曾義昌謀反鎮圧するため諏訪出兵するが、織田徳川連合軍阻まれ帰国織田軍はさらに甲斐国進軍し、勝頼は3月には小山田信茂岩殿城に移るために、城に火をかける。勝頼は岩殿城に向かう途中笹子峠大月市)で信茂の謀反にあい、天目山甲州市)へ追い詰められ武田一族滅亡する

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