新倉掘抜の開削
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 16:06 UTC 版)
着工期に関する古文書は見られないが、後代の記録によれば事業は江戸初期の谷村藩主秋元喬知時代に開始され、延宝3年(1675年)に着工され16年の歳月をかけて元禄3年(1690年)に完成したという。谷村大堰や禾生用水など秋元氏が実施したといわれる事業はいずれも異説が存在しているが、新倉掘抜に関しては後代の史料から秋元氏開削説が支持されている。後代の古穴調査に拠れば、秋元氏時代に掘抜は開通していたが、工事には不備があり安定した水量が確保できず、岩盤掘削も行えなかったため屈曲が多く、漏水や崩落事故が発生したためトンネルの機能を果たせず、宝永元年(1704年)に秋元氏が武蔵国川越に転封になると廃坑になったという。 郡内領が代官支配となった享保年間には諸村の連名で谷村代官所(都留市)へ掘抜掘削の請願書が提出されるなど再工事を求める動きが起こるが、反対意見や養蚕・織物不況などにより立ち消えとなった。 弘化4年(1847年)には嘯山の崩落で秋元氏時代の古穴が発見され、新倉村では古穴を利用した自普請による単独の開削を実施した。工事は近隣諸村や谷村陣屋へ資金要請して着手され、古穴を発掘し石工や大工らを動員して岩盤を掘削し新掘を築き、崩落や漏水個所を補修して土止めの柱立が施された。嘉永5年(1852年)には通水に成功し、畑地の水田転換や溶岩台地の開拓が可能となっている。 安政元年(1862年)には湖水の大減水や崩落事故により通水が停止する事態が発生し、再び普請再開が求められたが弘化年間の工事で諸村では経済的疲弊や負債整理の対立を招いており、反対意見が紛糾した。文久2年(1862年)には郡内各所や駿河国の富裕層に呼びかけた大型無尽を企画して資金を調達し工事が再開され、区間ごとの請負制の導入や岩盤掘削のため専門石工を動員して元治2年(1865年)には完成する。 以後は安定した通水が実現し、大正2年(1913年)に県庁により掘削された新暗渠が開通するまで機能した。
※この「新倉掘抜の開削」の解説は、「新倉掘抜」の解説の一部です。
「新倉掘抜の開削」を含む「新倉掘抜」の記事については、「新倉掘抜」の概要を参照ください。
- 新倉掘抜の開削のページへのリンク