新人選手選抜会議(新人ドラフト会議)
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「1965年のメジャーリーグベースボール」の記事における「新人選手選抜会議(新人ドラフト会議)」の解説
前年暮れにそれまで新人選手に多額の契約金を出すことに批判を受けていたメジャーリーグが、ついに新人選手の交渉を1球団にその権利を与えるドラフト会議を設置することを決定した。この規則は1965年5月1日に発効して、この日以降はアメリカ国籍を持つ全てのアマチュア選手と個々に契約することは一切禁止されて、新人選手との交渉権をドラフト会議で選択することになった。そして1965年6月にニューヨークで大リーグ初の新人選手選抜会議が開かれた。このドラフト会議はその後毎年1月中旬、6月中旬、9月初旬の3回行なわれてそこで獲得した交渉権は次の会議の15日前まで有効で、交渉権を得た球団との契約を選手が拒否した場合は次のドラフト会議で「特別選抜」に付されることとなった。最初の「正規選抜」の時は前年度シーズンのチーム成績の最下位から順に上位の球団が選手を指名し、交渉を拒否した選手を次のドラフト会議にかける場合の「特別選抜」の時は指名権の順番をクジ引きで決められた。 この年6月の第1回ドラフト会議では、正規選抜でメジャーリーグが各球団1名を指名し、その後に3Aが2名、2Aが3名、Aが無制限で指名した。マイナーリーグ球団の指名といっても全てメジャーリーグ球団の傘下に入っているので実質はメジャーリーグ球団が10名以上指名しているのと同じで、1965年6月にニューヨークで開かれた初めてのドラフト会議では合計814名の選手が選抜されて20球団が交渉権を獲得した。この第1回会議の最初の正規選抜は前年1964年のシーズン成績に基づいて、ワールドシリーズに負けたリーグの最下位チーム、次はワールドシリーズを勝ったリーグの最下位チーム、そして第9位チーム、第8位チームとリーグ交互に順番を決めて、この年の場合は前年ヤンキースがカージナルスにワールドシリーズで負けたので、指名する順番はアメリカンリーグのアスレチックス、ナショナルリーグのメッツ、アメリカンリーグのセネタース、ナショナルリーグのコルト45s、・・・の順番となり、指名する最初のチームとなったカンザスシティ・アスレチックスはアリゾナ州立大学のリック・マンデーを指名した。 リック・マンデーはアリゾナ州立大学時代にはカレッジ・ワールドシリーズに優勝しMVPにも選ばれて、1年後輩にレジー・ジャクソンがいた。ジャクソンは翌1966年にドラフトで同じカンザスシティ・アスレチックスに入団するが、大学時代のマンデーを「まぶしいくらいの存在だった」と後に述懐している。マンデーはアスレチックスに入団後、1972年にシカゴ・カブス、1977年にロサンゼルス・ドジャースにトレードされ19年間で通算打率.264、通算本塁打241本の成績で1984年限りで引退した。ドジャース時代の1981年のリーグ優勝決定シリーズ最終戦でモントリオール・エキスポズを相手に9回決勝本塁打を打ったことが記憶されている。そして彼には「史上初めてドラフトで指名された選手」としても記憶されている。
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