新たな資料の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:17 UTC 版)
「陸奥守吉行 (坂本龍馬佩刀)」の記事における「新たな資料の発見」の解説
しかし、2015年(平成27年)に高知県立坂本龍馬記念館から龍馬佩刀を寄贈した経緯を記した書類が発見される。この書類によれば、1913年(大正2年)に北海道釧路市で発生した「釧路の大火」にて弥太郎宅が罹災した際に刀は変形し、後に研ぎ直されていたことが記されていた。また、本作の根本にある赤焦げた跡は罹災したことでできたものであり、暗殺時に龍馬が敵刃を受け止めたとされる鞘も焼失したとされている。 また、2015年(平成27年)秋ごろより、所蔵元である京都国立博物館のある学芸員が「刀身の下にうっすらと別の刃文が見える」と指摘したため、文化財用のスキャナーで確認したところ吉行の作風である拳型丁字の刃文の跡が見つかる。上記資料及び科学調査を踏まえて、同館学芸部上席研究員(2016年時点)である宮川禎一によって、所蔵する本作が近江屋事件で龍馬が携えていた陸奥守吉行であり、火災で変形して研ぎ直されたものだと断定された。 2021年(令和3年)7月には、焼刃となった本作が研ぎ直される直前に取られたとされる押型が、北海道室蘭市にある日本製鋼所室蘭製作所内の「瑞泉鍛刀所」資料館で見つかった。「瑞泉鍛刀所」は大正時代から日本製鋼所内で活動している日本刀工房であり、工房で刀を鍛えた際には押型をとって記録していた。その記録集の一冊に本作を含む龍馬の遺品とみられる4本の刀の押型が残されていたという。収録された資料には「大正十三年九月二十七日 札幌刀剣会 山口喜一先生宅に於いて」や、「焼身」といった文字が記載されていることから、火災の11年後となる1924年(大正13年)に、山口喜一(北海タイムス編集長などを務めたジャーナリスト)宅で研ぎに出される前に写し取ったものと考えられ、研ぎ直される前の刀の状態が分かる唯一の資料とされている。また、龍馬の研究をしている専門家は、当時坂本家当主であった弥太郎が、何らかの理由で瑞泉鍛刀所の初代当主である堀井俊秀と出会い、押型が取られることになったのではないかと考えている。
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