斎藤氏時代とは? わかりやすく解説

斎藤氏時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 22:13 UTC 版)

竹中重治」の記事における「斎藤氏時代」の解説

天文13年1544年)、美濃斎藤氏家臣美濃国大野郡大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町城主竹中重元の子として同地生まれる。 弘治2年1556年長良川の戦い初陣となる。斎藤道三味方したが、父が不在のため代わりに大将務めた籠城戦の末、斎藤義龍の軍を退けている。永禄元年1558年)、父は不破郡岩手城主岩手弾正攻略し永禄2年1559年)、菩提山城築いて居城移し、重治もこれに従う。 永禄3年1560年)、父の死去または隠居一説父の死去は永禄5年1562年)とも)により家督相続し菩提山城となった。そして長良川の戦い勝利した美濃国国主斎藤義龍仕えた永禄4年1561年)に義龍死去すると、その後継いだ斎藤龍興仕える。 この頃尾張国織田信長による美濃侵攻連年のように激しくなるが、義龍時代信長攻勢をよく防いでいた。しかし義龍死去すると、後を継いだ龍興若年だったために家臣団動揺走り一転して織田氏侵攻を防ぐことが困難となったそのような状況見た信長が、永禄4年1561年7月美濃侵攻し永禄6年1563年)にも新加納織田勢と戦い、このときも重治の戦術のために斎藤勢勝利したという。 ところが、主君龍興酒色溺れて政務顧みようとせず、一部側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆政務から遠ざけていた。このため永禄7年1564年2月6日白昼、舅・安藤守就軍勢龍興居城稲葉山城(後の岐阜城)を襲い齋藤飛騨守ら6名を討ち取り龍興逃亡させた。これを機に信長美濃への圧力強めていくことになる。7月29日あたりまでは稲葉山城占領続いていたが(『敬念寺文書』)、8月には龍興奪還されたようである。自ら龍興諌め諭し稲葉山城龍興返還したともされるが、半年にわたり戦闘継続していたことから龍興支援する勢力攻撃により稲葉山城放棄したとするのが正しい。城を放棄した後は隠遁生活を送る。 永禄10年1567年)、織田信長侵攻により斎藤龍興稲葉山城追われ没落する斎藤家去り北近江戦国大名浅井長政客分として東浅井郡草野に3,000貫の禄を賜るが、約1年で禄を辞して旧領岩手へと帰り隠棲した。

※この「斎藤氏時代」の解説は、「竹中重治」の解説の一部です。
「斎藤氏時代」を含む「竹中重治」の記事については、「竹中重治」の概要を参照ください。

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