斎藤氏家臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 07:07 UTC 版)
文亀3年(1503年)、安藤守利(定重)の子として誕生。美濃安藤氏は元々伊賀姓を称しており、守就も伊賀伊賀守など時に伊賀姓も名乗った。 はじめ土岐頼芸に仕えていたが、美濃国が斎藤道三によって奪取されると、道三の家臣として仕えた。稲葉良通や氏家直元らと並んで西美濃三人衆と称されたという。道三の家臣として、織田信長の援軍として派遣され、那古野城に在城したこともある。 弘治2年(1556年)の道三とその子・斎藤義龍の抗争(長良川の戦い)では義龍に協力している。 義龍の死後は斎藤龍興に仕えた。しかし龍興が一部の重臣だけを寵愛して守就を初めとする三人衆らを遠ざけたため、諫言したが聞き入れられなかった。このため永禄7年(1564年)2月6日白昼、娘婿の竹中重治と稲葉山城(のちの岐阜城)を攻撃し、斎藤飛騨守以下六名を殺害した。城主斎藤龍興は戦わずに城下に放火し退城した。
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