文革終結後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 02:07 UTC 版)
かつては、文革武闘犠牲者を葬る集団墓地は全国に存在し、重慶だけでも二十数カ所あったという。しかし、文革終結後の文革否定の社会風潮と都市開発の波の中で、すべて七十年代後半から八十年代にかけて取り壊され、沙坪公園内の集団墓地だけが残った。文革武闘犠牲者は単純な文革被害者ではなく、紅衛兵・造反派組織メンバーとして数多くの迫害・破壊行為の実行者でもあり、彼らを憎悪する者も多かった。武闘それ自体も、紅衛兵・造反派組織の暴力的体質と強い独善性から生じた、忌まわしく否定すべき行為であった。沙坪公園内の墓群が残ったのは、ここは当時はまだ重慶の僻地であったこと、公園内であったことが理由とされる。 1985年、ある引退幹部が四川省党委に墓群を取り壊すよう提言した(重慶はまだ直轄市ではなく、四川省管轄下であった)。これを機に、取り壊して「狂気の年代」の忌まわしい記憶を忘れ去ろうという意見と、保存して後人の戒めとしようという意見が対立した。四川省党委から処理を委託され墓群を視察した当時の重慶市委書記は、「取り壊さず、宣伝せず、公開しない」という方針を打ち出し、墓群をコンクリートの塀で囲った。 文革終結後、文革否定の社会風潮により、長い間文革墓群は訪れる人もなく社会から忘れられ、風化が進んだ。しかし、社会風潮の変化により、近年は死者の遺族、友人など墓群を訪れる人がしだいに増加し、社会的関心も高まった。2007年4月、国務院(政府)は、第三次全国文物調査の通知を出し、2008年4月国家文物局は、人民公社運動、大躍進、文化大革命運動などの時期の代表的文物も保護の対象とする方針を打ち出した。これが墓群保存の転機となった。2008年8月沙坪公園は沙坪垻区政府に区級文物保護単位を申請し即日認められた。2009年初沙坪垻区文物保護科は市級文物保護単位を申請し、同年12月15日、重慶市が第二次文物保護単位を公布した際、文革墓群(紅衛兵墓園)もその中に含まれた。しかし、現在も沙坪公園正門などには文革墓群・紅衛兵墓園を示すいかなる標識もない。墓群の入り口は鍵がかけられ、春節・清明節以外は沙坪公園管理処に事前申請しなければ中に入ることはできない。
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