文学雑誌の創刊・主宰
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「ジャン=リシャール・ブロック」の記事における「文学雑誌の創刊・主宰」の解説
1910年、ポワティエで「ラ・メリゴット」に集まる作家・芸術家の協力を得て、左派の文学雑誌『レフォール(L'Effort、努力、取組み)』を創刊した(創刊号は1910年6月1日付)。1912年3月に『レフォール・リーブル(フランス語版)(L'Effort libre)』に改称し、1914年6月に終刊となるまで、アンドレ・スピール、シャルル・ヴィルドラック、アンリ・バシュラン(フランス語版)、レオン・バザルジェット(フランス語版)、ピエール・ジャン・ジューヴ、ルイ・ナジ(フランス語版)ら新しい芸術を目指す若手作家を中心に、ロマン・ロラン、ルネ・アルコス、ジュール・ロマン、アンリ・バタイユ、ルイ・シャドゥルヌ(フランス語版)、ジョルジュ・シュヌヴィエール(フランス語版)、ジョルジュ・デュアメル、リュック・デュルタン(フランス語版)、ポール・フォール(フランス語版)、アンリ・ゲオン(フランス語版)、アンリ・ギルボー(フランス語版)、ヴァレリー・ラルボー、フィレアス・ルベーグ(フランス語版)、カミーユ・ルモニエ(フランス語版)、ロジェ・マルタン・デュ・ガール、マルセル・マルティネ(フランス語版)、シャルル・アルベール(Charles Albert)らが寄稿し、ノーダン、ティーソン、アンリ・ドゥーセ(フランス語版)、フランシス・ジュールダン(フランス語版)らが挿絵を描いた。歴史学者のクリストフ・プロシャソン(フランス語版)は『レフォール・リーブル』誌について「1910年代の若い知識人に影響を及ぼした重要な文化の変容が起こった場の一つ」であり、寄稿者の「多くが新しい「文明」に希望を抱き、前衛の使命を担っていると確信する社会主義、無政府主義、サンディカリスムの若い知識人であった」と説明している。一方、ブロック自身は『レフォール・リーブル』と改称した後、「革命芸術」、すなわち、「時代を揺るがす運動をすべて念頭に置いた芸術」を目指すと編集方針を明確にした。 1913年、シャルル・アルベールが同誌に「人民の芸術は可能か」と題する書状を掲載し、これに対してマルセル・マルティネがプロレタリア芸術に関する記事を掲載。これを機に、ブロック、アルベール、マルティネのほか、バザルジェット、スピール、ティーソン、ヴィルドラックらが「知識人協同組合」という名称で行動委員会を結成した。さらに1913年8月には、労働者が「将来のプロレタリアートの大事業の基盤を築いた今」、『レフォール・リーブル』誌は「今後の改革に協力」し、「革命文明の雑誌」を目指すと、前衛文学から革命文学・プロレタリア文学への転換を明らかにした。『レフォール・リーブル』誌は第一次大戦の勃発によって1914年6月に終刊となったが、ブロックは戦後(1920年)、同誌に掲載した主な記事を『謝肉祭人形は死んだ - 現代について理解を深めるための最初の随筆』として刊行した(著書参照)。
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