教諭時代
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1923年(大正12年)、卒業とともに神奈川県立横浜第三中学校(現:神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校)に教諭として赴任した。この中学は新設で、横浜商工実習学校の一部を借りて発足し、一年生3クラスと数名の教官が集まっていた程度であった。その年の8月中旬に三崎臨海実験所で中等教員講習会が開かれ、これに参加し、谷津直秀や当時助手であった岡田要に直接指導を受けた。谷津は庸に、「ヒザラガイ類について調べた経験があるというので皆に話をしてくれ」といい、自著の『動物分類表』を常に手にしており、熱心に分類表の白い所に記入した。庸が臨海実験所に来ている間、中学校の教官室から不審火が出て校舎はほとんど焼け、それまで持っていた書籍・標本等全部を失った。赴任してすぐの出来事で出鼻を挫かれた状態であったが、苦難はそれに留まらず、さらに約2週間後の9月1日には関東大震災が襲来し、この際は幸い怪我や失ったものはなかったが、大混乱に苦しんだ。やがて次第に平静を取戻すと、牧野富太郎の植物採集会に参加したり、横浜を中心に貝類を採集して謄写刷の目録を作り、ヒザラガイ類の研究も続けた。1924年(大正13年)に平瀬信太郎にお願いしてあった『岩礁に於ける三崎のヒザラガイ類』が動物学雑誌第36巻に掲載され、これが処女作となった。ここで4年間教諭生活が続いたが、この間に貝友石橋千円やDaniel B. Langfordなど、様々な人と知りあった。
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