教育・研究・課外活動の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:22 UTC 版)
「小樽高等商業学校」の記事における「教育・研究・課外活動の発展」の解説
設立当初の小樽高商は教育方針として先行の神戸高商と同様、実業教育に重点を置き、旧制中学校のみならず(甲種)商業学校(現在の高等学校商業科に相当)出身者にも門戸を広げ、商業実践・企業実践・商品実験に加え商業英語を重視した。1919年に竣工した企業実践科の「実習工場」は、授業の一環として石鹸の製造から販売までを実習として行うものであり、その商品は「高商石鹸」の名で知られた。さらに渡邊校長の方針により外国人教師を多数任用し、英語以外にも独・仏・露・西・中などの語学教育を充実させたことから、「北の外国語学校」と称された。小樽高商卒業生として作家・伊藤整が出たのは外国語教育の充実、プロレタリア文学の小林多喜二が生まれたのは1925年(大正14年)の軍事教練反対運動に代表される左派の学生運動の高まりと関わりを持っている。また、高商のなかでは北方地域への関心が高く、1913年7月には3年生24名が沿海州ウラジオストクへの修学旅行を行っている。 2代目校長・伴房次郎時代にはゼミナール制(1931年)・指導教官制(1932年)などの教育の充実と並行して研究活動も盛んになり、1926年7月の紀要誌『商学討究』創刊を基礎に、1933年には研究機関として北海道経済研究所を設置した。課外活動では北大予科とのスポーツ定期戦が開催されたほか、寒冷地に位置することからウィンタースポーツが盛んであり、1931年には図書館裏にシャンツェ(スキージャンプの跳躍台)が竣工し、1933年1月には第1回全国高専スキー大会で優勝した。その一方、東京高商の大学昇格に見られる大正期以降の高等教育拡充の動きのなかで、1918年には小樽高商でも大学昇格運動が起こっているが、渡邉校長の消極的態度もあって挫折している。
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