教会の門扉に掲示を行うのはよくあることだった
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:19 UTC 版)
「95か条の論題」の記事における「教会の門扉に掲示を行うのはよくあることだった」の解説
城教会の門扉。「テーゼンの扉」と呼ばれている。当時は木造だったが、実物は教会とともに戦禍で焼失したため、現在は扉を模した青銅板が貼られている。 城教会で展示されている95箇条の論題の全文 1517年のニュルンベルク版。この写しは1891年にロンドンの古書店で発見され、現在はベルリン州立図書館に収蔵されている。 ルターがヴィッテンベルクの城教会の門扉に「95か条の論題」を貼りだしたのは1517年10月31日の夜中である。翌11月1日はカトリック教会の万聖節と城教会の献堂記念日とにあたっており、この貼り紙は祭りに集まる人々の目に留まることになる。 このように、公の場で、壁新聞のように多くの人の目に触れるようなやり方で教会を告発してみせたというのは、現代の読者には果敢な行動であるという印象を与える。しかし実際には、これは当時としては極めて一般的な出来事だった。 当時のヴィッテンベルクの人口は2000人程度である。人口規模は大きくないが、ザクセン選帝侯の本城であると共に、1502年に開設されたばかりのヴィッテンベルク大学があった。町の西端にある選帝侯の居城に隣接して城教会があり、その門は日常的に大学の掲示板として利用されていた。 ヴィッテンベルク大学の神学博士だったルターが掲示した文書は、全編にわたってラテン語で書かれており、一般市民には読めないものであった。つまり、ルターはこの文書を以って一般市民に問題提起しようという意図は全く無かった。 掲示板にこうした文書を貼りだすのは、当時の神学者が公開討論を申し入れる際の所定の手続きであり、その決め事に沿った定型的な行動に過ぎない。こうした公開討論は、当時の神学者が修練の一環として日常的に行っていたもので、特別なものではない。討論を行いたい者は、議論のテーマをラテン語でまとめ、討論の希望日時や場所を明記して掲示板に貼るというのが、決められた手順だった。 そしてこの手順では、討論を申し入れた者は、掲出したのと同じ文書を聖職者としての上司・関係者に対して送付する義務がある。写しを複数必要とするがゆえに、この文書は当時普及し始めたばかりの活字を用いて紙に印刷されたものだった。ルターは手順にしたがって、この文書を当時のドイツの首座司教であるマインツ大司教にも送っている。 ところが当時のマインツ大司教アルブレヒト(ドイツ語版)こそ、ローマ教皇やフッガー家と結託し、問題となっている贖宥状を売って利益をあげている張本人だった。これは偶然であり、ルター本人も自分が批判しようとしている贖宥状の利益がマインツ大司教アルブレヒトの懐に入る仕組みになっているとは知らないままに文書を送付したと考えられている。ルターはマインツ大司教にこの文書を送るにあたり、「私の最良の父、私の牧者」と呼びかけている。これについて、19世紀のイギリス女王ヴィクトリアが「アルブレヒトはさぞや面白くないことだったであろう」と評したと伝わっている。
※この「教会の門扉に掲示を行うのはよくあることだった」の解説は、「95か条の論題」の解説の一部です。
「教会の門扉に掲示を行うのはよくあることだった」を含む「95か条の論題」の記事については、「95か条の論題」の概要を参照ください。
- 教会の門扉に掲示を行うのはよくあることだったのページへのリンク