故障とカムバック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 05:54 UTC 版)
「ボー・ジャクソン」の記事における「故障とカムバック」の解説
1990年にレイダースがプレイオフに進出。しかし、1991年1月13日、対シンシナティ・ベンガルズ戦で後方からタックルを受けた際に臀部を負傷。股関節を脱臼し、また自分で無理に関節をはめ直したことも相まって周囲の重要な血管を切断してしまう事態となった。この負傷は極めて重く、ジャクソンには人工関節を入れる手術が必要となった。このためロイヤルズはジャクソンの選手生命が絶たれたと判断し、3月18日に解雇した。 しかし、ジャクソンは人工関節という重いハンデを負いながらも懸命のリハビリに励み、1991年4月3日にシカゴ・ホワイトソックスと契約。9月2日から閉幕にかけて23試合に出場したが再び故障が悪化したため、1991年にはアメフトからの引退を発表。1992年の一年間はMLBでのプレーは出来なかった。 1993年には85試合の出場で16本塁打を放ち、スポーティング・ニュース年間最優秀カムバック·プレーヤーとトニー・コニグリアロ賞を受賞。 1993年のシーズン終了後、フリーエージェント(FA)となり、1994年1月31日にカリフォルニア・エンゼルスと契約したが、1994-95年のストライキ突入2日前の同年8月10日が最後の出場となってしまった。 短期間ながら、米国を代表する双方のプロスポーツで優秀な成績を残したことは21世紀の現在でも高く評価されており、不幸な怪我によりその全盛期に突然に選手生命が絶たれたことを惜しむ声も多い。怪我がなければ双方の殿堂入りは十分狙えたと言われているが、これはジャクソン自身が私生活においても規律が取れた人間であり、その極めて高い身体能力に胡坐をかくことなく、非常に真面目で暴力的な面がなく、そして自己鍛錬を欠かさぬ性格だったことにも裏付けされている。またアナボリックステロイドに対しても当時から危機感を抱いており、後のインタビューで薬物に頼ることは絶対にしなかったと証言している。
※この「故障とカムバック」の解説は、「ボー・ジャクソン」の解説の一部です。
「故障とカムバック」を含む「ボー・ジャクソン」の記事については、「ボー・ジャクソン」の概要を参照ください。
- 故障とカムバックのページへのリンク