政治家、商人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 06:33 UTC 版)
「ロバート・サットン (外交官)」の記事における「政治家、商人として」の解説
1722年イギリス総選挙でノッティンガムシャー選挙区(英語版)から出馬した。ノッティンガムシャーの現職議員は2名ともにトーリー党所属だったが、サットンと第2代ハウ子爵エマニュエル・ハウ(英語版)はホイッグ党の代表として出馬、それぞれ1,349票と1,339票を得て現職議員2名を下した。選挙戦に費やした支出は大きく、1727年イギリス総選挙では両党が妥協することになり、トーリー党はサットンとハウを無投票で当選させ、その見返りとしてノッティンガム選挙区(英語版)とイースト・レットフォード選挙区(英語版)でそれぞれ1議席を指名した。初当選直後の1722年5月9日に枢密顧問官に任命され、1725年5月27日にバス勲章を授与された。また、1723年に第3代ラトランド公爵ジョン・マナーズが第2代レキシントン男爵ロバート・サットンの娘と結婚したため、マナーズ家はノッティンガムシャーでサットン家を支持した。 1728年に政府の許可を得てチャリタブル・コーポレーション(英語版)(Charitable Corporation)の資本金を10万ポンドから30万ポンドに増資、1730年にさらに許可を得て60万ポンドに増資した。2回ともに(内部者取引の形で)新株に応募して多額の利益を上げ、1731年に庶民院で会社による不公正な取引方法や認可状違反を擁護したが、1732年に会社の大規模な不正と損失が露見したため、一転して多額の損失を出した。同年に庶民院で調査委員会が立ち上げられると、調査委員会は4月に報告書を発表、会社役員の一部が「株価を上げることしか頭になかった」ため会社の財産を不当に流用したと批判した。報告書によると、サットン自身は不当流用はしなかったが、1728年に増資を申請したときに虚偽申告を行った。これにより野党派ホイッグ党(英語版)の議員サミュエル・サンズは5月3日の弁論でサットンを攻撃、サットンは翌日の返答で自身が会社の不正について全く知らなかったと主張した。その後、サンズは役員の1人の自供に基づく報告書を入手したため、サットンへの攻撃を再開したが、サットンが職務怠慢という一点のみで有罪とすることが賛成148票、反対89票で可決されたため、(初代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァル(英語版)によると)野党議員約50名が激怒して離席したという。ただし、結果的にはサットンの庶民院追放は可決された。 1734年イギリス総選挙でグレート・グリムズビー選挙区(英語版)から出馬して、無投票で当選した。グレート・グリムズビーは選挙区として長らく腐敗しており、1714年に南海会社理事を罷免されたアーサー・ムーア(英語版)、南海泡沫事件により1721年に庶民院を追放された初代準男爵サー・ロバート・チャップリン(英語版)など多くの悪徳商人が当選してきており、サットンもその例に漏れなかった。ただし、1734年以降は政治や実業に関与せず、1741年イギリス総選挙にも出馬せず、議員を退任した。 議員を退任した後、大法官の初代ハードウィック男爵フィリップ・ヨークは1742年のチャリタブル・コーポレーション対サットン(英語版)における判決で庶民院の決定(すなわち、サットンが職務怠慢のみで有罪であるとする決定)を支持した。 1746年8月13日に死去した。
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