撃墜王へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 02:31 UTC 版)
「マンフレート・フォン・リヒトホーフェン」の記事における「撃墜王へ」の解説
リヒトホーフェンは西部戦線にオズヴァルド・ベルケの編隊機として戻った。乗機はアルバトロス D.II。彼の最初の公認記録は1916年9月17日、ベルケに随伴してイギリス軍のEF-2b複座戦闘機を単機で撃墜したことによる。彼はこの戦いの後、ベルリンに住む宝飾職人の友人に空中戦の日付と敵機の機種を刻んだ銀杯を発注する手紙を書いている。しかし、彼の恩師といえるベルケは10月28日に40機撃墜の記録を残して僚機と空中衝突して戦死した。ベルケの飛行中隊の部下達も6週間のうちに6名が戦死、1名が負傷し、2名が神経症で搭乗割から消えていた。しかし、リヒトホーフェンはこの後も戦果をあげ続けた。1916年11月23日にバポーム=アルベール上空で、マンフレートは当時のイギリス最高のエース、ラノー・ホーカー (Lanoe Hawker) 少佐のエアコー DH.2(デハビラント-2)と交戦し撃墜する。彼は1917年1月までに16機を撃墜(他に1916年10月25日に英軍BE-12機の未公認撃墜1機)してプロイセン軍人最高のプール・ル・メリット勲章を受章した。 同月、彼はエリート・パイロットたちで編成される第11戦闘機中隊 (Jasta 11) の中隊長に任命された。この中隊は部隊の識別色として機体の配色に赤を採用したが、中でもリヒトホーフェンの乗機は全体が赤く、特に目立つ物であった。このことはドイツ国内のプロパガンダに使われ、敵にも「赤い戦闘機乗り」の名が知られるようになった。 1917年3月28日にティヨワで公認31機めとなる英軍ニューポール 17戦闘機を撃墜した後の3月の末から4月の初め、5機編隊のリヒトホーフェン中隊は15機の英軍編隊を発見した。リヒトホーフェンは編隊から離れた敵機に対して攻撃すべく接近したが、射撃直前に敵弾が乗機エンジンと2個の燃料タンクに命中し、ガソリンを噴出しながら不時着した。危うく空中爆発の危機を乗り越えたリヒトホーフェンは以後攻撃一辺倒の性格を抑制すべく努力した。血気に逸りすぎることが自信過剰と不注意に繋がることを学んだが、ここ一番というときに防御が甘くなる欠点はこの後も完全には克服できなかった。初めての空戦での敗北であったが、それに恐れることもなく4月2日にはファルビュスで公認32機目の英軍のBE-2d複座機を早々に撃墜している。
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