捕虜・強制収容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:11 UTC 版)
「日本占領時期のインドネシア」の記事における「捕虜・強制収容」の解説
日本軍による植民地運営でオランダ人管理者が維持されることを期待して、大半のオランダ人は去るのを拒んだ。ところが彼らは強制収容所に送られ、日本人またはインドネシア人の交代要員が上官および技術的地位として動員された。10万人のオランダ人を中心とするヨーロッパ民間人(と若干の華人)が強制収容所へ送られ、8万人のオランダ、イギリス、オーストラリア、アメリカの連合国兵士が捕虜収容所に行き、そこでの死亡率は13%から30%だった。捕虜のうち17000人はビルマや日本へ移送され、オランダの民間人は飢餓、病気などにより16000人が死亡した。 降伏した蘭印軍兵士のうち、インドネシア人は基本的に解放が進んだが、キリスト教系で植民地統治の受益者だったアンボン人(英語版)とメナド人は強制的に兵補にされ、拒否した者には拷問が加えられた。その他のインドネシア人の元蘭印軍兵士に対しては、1942年8月から兵補の募集が進められた。
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