捕虜、戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 03:14 UTC 版)
「フリードリヒ・パウルス」の記事における「捕虜、戦後」の解説
パウルスは、ソ連の捕虜となった後はヴィルヘルム・ピーク(のちの東ドイツ初代大統領)の説得を受け、ナチスに対する強い批判者となって、ドイツ共産党の指導する自由ドイツ国民委員会やドイツ将校同盟に名を連ねた。彼はスターリンにソ連に居るドイツ人捕虜からなる「ドイツ解放軍」結成を申し出たが、反応はなかった。捕虜収容所にいるかつての部下たちの中にはこの翻身を忌み嫌う者も多かった。ドイツが捕虜としていたスターリンの長男(ヤーコフ・ジュガシヴィリ)と捕虜交換する案がドイツから提示されたが、ソ連が拒否したため実現しなかった。ドイツにいた彼の妻子は逮捕され、ダッハウ強制収容所に送られた。 ニュルンベルク裁判ではナチス・ドイツの戦争犯罪を告発する検察側の証人として出廷した。その際収容所で重病になった妻に会う機会もなく、彼女は1949年に死去した。 1953年、東ドイツの指導者ヴァルター・ウルブリヒトとの会見ののち抑留から解放され、東ドイツに移住した。子供たちは西ドイツにおり、会うこともなかった。ドレスデンに豪邸を与えられ、ドイツ人民警察で戦史研究室参与の職にあった。東西ドイツの再軍備反対運動などに参加していたが、晩年はALSを患い、スターリングラード戦敗北から14年後の1957年2月1日に死去した。軍隊礼を以て埋葬された。 ヒトラーへの追従により脱出の決断を下せず、兵士たちを救わなかったこと、また多くの兵士が戦死したにもかかわらず自らは捕虜となって自決しなかったこと(同じく敵に包囲されつつも、配下の兵士を武装解除させて投降させ、自決したヴァルター・モーデルと比較されて批判されている)、その後反ナチスへ転換したことなどから、現在でも彼に対する歴史的評価は分かれている。
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