手押し車 1856年–1860年
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「モルモン・トレイル」の記事における「手押し車 1856年–1860年」の解説
1856年、貧しいヨーロッパからの移民が安価に旅することを可能にするために、手押し車中隊という仕組みを始動させた。手押し車は2輪の荷車で、役獣の代わりに人間が曳いていくものであり、1856年から1860年まで輸送の代替手段として使われた。これはヨーロッパからの改宗者をソルトレイクシティまでより速くより容易にまたより安く連れてくる手段だと考えられた。およそ3,000人のモルモン教徒が653両の手押し車と50両の物資荷車を使い、10個中隊に分かれてソルトレイクシティへの道を進んだ。手押し車を使ったのは初めてのことではなかったが、それを大々的に使ったのはこの集団だけだった。 手押し車は通りの清掃員が使っていた荷車を改装したものであり、ほとんど木材でできていた。一般に長さは6ないし7フィート (183 - 213 cm)、幅は狭い荷車道に合うだけのもので、引っ張るか押して進めた。車には小さな箱が付けられ、その長さは3ないし4フィート (91 - 122 cm)、深さは8インチ (20 cm) だった。積み込む物資の重さは約500ポンド (227 kg)であり、その大半は旅の食糧とわずかな個人の所有物だった。 手押し車中隊のうち2隊を除いて、さしたるトラブルも無く、わずかに死者を出しただけででこぼこ道の旅を成功させた。しかし、ウィリー中隊とマーティン中隊と呼ばれた第4および第5の中隊は大きなトラブルに遭遇した。この2個中隊は1856年7月にアイオワシティを出発したが、平原を横切る旅を始めるには大変遅すぎる時期だった。この2隊は現在のワイオミング州キャスパーの西で厳しい冬の気象に遭遇し、旅の残り期間深い雪と吹雪と戦って道を続けた。食糧は間もなく枯渇した。ヤングはこれら中隊を連れてくる為に救援隊を組織したが、この2個中隊にいた980人の移民のうち210人以上が死んだ。 手押し車中隊は1860年まで続いて成功し、伝統的な牛に曳かせる荷車中隊も高い費用を出せる者達のために続いた。1860年以降、教会は毎年春に荷車中隊を東に送り、夏の間にモルモン教徒を連れてユタに戻ってくるようにした。最終的に1869年に最初の大陸横断鉄道が開通し、その後の移民は鉄道で旅することができ、モルモン開拓者トレイルの時代は終わりを告げた。
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