戦前の40形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/26 18:52 UTC 版)
本形式は当初の目的どおり西宝線に投入されて51形を置き換えた。ところが、1926年に西宮北口駅-今津駅間が開業して路線名も今津線に改名され、車両も木造省電の譲渡車である90形が就役すると、小型で輸送力の劣る本形式は1927年以降甲陽・伊丹両線を中心に運用されるようになった。さらに1930年には、今津線用に1形1 - 6が転入してくると、余剰となった本形式は池田車庫に転出して箕面線で運用されることとなり、37形が入れ替わる形で西宮車庫に転入して甲陽線で運用された。この他、1926年には集電装置をパンタグラフに換装のうえ同時にフェンダーを撤去、1928年には当時在籍の各形式同様、暖房装置を取り付けている。 箕面線転出後の1931年には、42が踏切事故で消防車と衝突して全焼、9月13日付で廃車となった。その他の4両については1932年2月1日付で能勢電気軌道から37形に代わって本形式の借用依頼を受けて、同社の多客期に貸し出すようになった。その際にはパンタグラフに加えてトロリーポールを装備したが、パンタグラフ側のトロリーポールは通常のものに比べると竿が短くなっている。また、能勢電気軌道には併用軌道区間があったことからフェンダーを装着した。 1936年には320形の新製に伴って1形のうち15 - 18・33の5両が箕面線用に転入してきたことから、小型で輸送力が劣るだけでなく、直接制御で連結運転のできない本形式は休車となったが、能勢電気軌道では従来在籍していた単車が老朽化していたこともあり、同年10月から同社へ貸与されることとなった。当初は絹延橋車庫の留置スペースの関係から、池田車庫に留置されていて必要なときに能勢電に入線するという形であったが、1940年ごろからは41・43・45の3両が能勢電気軌道に常駐するようになった。このため、1942年までにはパンタグラフが撤去されている。一方、40は箕面線の予備車として引き続き池田車庫で待機していたことから、パンタグラフは存置されていた。
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