戦前の31形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/31 13:50 UTC 版)
1929年に竣工した31 - 45の15両は全車北大阪線に投入されて501形を置き換えた。翌年には46 - 50の就役に合わせて31 - 35が国道線に転籍したが、その際、溝型レールを使用していた北大阪線と通常のT型レールの国道線では車輪のバックゲージが異なることから、車輪を修正している。その後、1932年には野田駅構内の連絡線が完成したために北大阪線車両も浜田車庫に入庫するようになり、北大阪線の線路もT型レールに交換されたことから、北大阪線で運用されていた車両も国道線用と仕様を統一している。 1933年にクロスシート車は、国道線で使用中の車両と北大阪線で使用中の車両の番号を揃えるために、番号を36 - 40に変更し、それまでの36 - 40が代わって46 - 50と改番された。1935年には40番台を忌み番として欠番としたことから、41 - 50を81 - 90と改番した。80番台まで大きく車号が飛んだのは51・61の両形式が存在していたことと、当時すでに71形の新造計画があったからである。また、1935年にクロスシートの36 - 40のロングシート化を実施、捻出されたクロスシートは「アミ電」こと121形に転用された。 この他、71形製造前に90号に東洋電機製造製の油圧カム軸式間接制御装置が試用されたほか、1936年には1形同様着脱式だったヘッドライトを、固定式に改めて屋根上に取り付けた。この前後には31 - 35が再びダブルポール化されて北大阪線運用に復帰、国道線に残ったのは元クロスシート車の36 - 40の5両だけであった。戦時中には31形も金属供出のあおりを受けてナンバープレートと社章、2本ある窓保護棒のうち1本を供出したが、一部の車両は社章がそのまま残ったものもあった。
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