成人後の経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 16:24 UTC 版)
「ミッヂ・ウィリアムス」の記事における「成人後の経歴」の解説
1930年代はじめ、ザ・ウィリアムス・カルテットの舞台を見たロジャー・シグワイア (Roger Seguire) は、グループと契約を取り交わしてマネージャーになった。シグワイアはピアニストで、アジアでの経験もあり、グループに中国と日本でのツアーをブッキングした。1933年、ザ・ウィリアムス・カルテットは中国:上海に赴き、カニドローム (the Canidrome) に出演した。1934年、ミッヂは日本で、初めてのレコーディングに臨み、英語と日本語でジャズ・ソングを歌った。この時レコーディングされたのは、「レージー・ボーンズ」(日本語歌詞は堀内敬三)、「ダイナ」(日本語歌詞は野川香文)、「セントルイス・ブルース」(日本語歌詞は奥山靉)、「バイ・バイ・ブルース (Bye Bye Blues)」など5曲であった。 1934年8月、ザ・ウィリアムス・カルテットはカリフォルニアに戻ったが、程なくして兄弟のひとりチャールズが銃器の事故で死んだ。ミッヂはバークレーに定住し、1935年夏には、ラジオ番組『Blue Monday Jamboree』のレギュラーに加わった。1936年はじめに、アル・ジョルスンと出会い、ジョルスンのラジオ番組『Shell Chateau』に出演して歌った。1936年夏にはニューヨークに移り、ルディ・ヴァリー (Rudy Vallée) のラジオ番組に数回登場した。ミッヂの歌声を評価したNBCのブルー・ネットワーク(Blue Network:ABCの前身)は、サスティナー(埋め草)番組として週2回の15分の歌番組をミッヂに任せた。1937年はじめには、NBCのレッド・ネットワーク(Red Network:NBC Radio Network の前身)でも、毎週歌を歌っていた。 ニューヨークにいたころのウィリアムスは、このほかにも『RCA Magic Key 』シリーズ、『Studebaker Champions Show』、『Ben Bernie’s Show』など多数のラジオ番組に出演した。1936年以降、ウィリアムスは様々なレコードレーベルからレコードを出し始め、1937年には、自身のバンド、ミッヂ・ウィリアムス・アンド・ハー・ジャズ・ジェスターズ (Midge Williams and Her Jazz Jesters) を従えてレコーディングするようになった。ジャズ・ジェスターズのメンバーには、レイモンド・スコット (Raymond Scott)、フランキー・ニュートン (Frankie Newton)、バスター・ベイリー (Buster Bailey)、チャーリー・シェイヴァース (Charlie Shavers.らがいた。ニューヨークにいたころのウィリアムスは、ハーレムのアポロ・シアターやサヴォイ・ボールルーム (Savoy Ballroom) にも出演していた。自身のバンド以外のジャズ・ミュージシャンたちとの共演も多く、 リル・アームストロング (Lil Armstrong)、バニー・ベリガン (Bunny Berigan)、ハリー・ジェイムス、ジョン・カービー (John Kirby)、グレン・ミラー、ファッツ・ウォーラー、ベン・ウェブスター (Ben Webster)、テディ・ウィルソンらとも共演した。 1938年、ウィリアムスはルイ・アームストロングの楽団に参加し、全米各地を興行して回ったが、ウィリアムスとアームストロングが共演するレコーディングは行なわれなかった。
※この「成人後の経歴」の解説は、「ミッヂ・ウィリアムス」の解説の一部です。
「成人後の経歴」を含む「ミッヂ・ウィリアムス」の記事については、「ミッヂ・ウィリアムス」の概要を参照ください。
- 成人後の経歴のページへのリンク