徳仁親王(後の第126代天皇、今上天皇)の立太子の礼
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平成3年(1991年)2月23日、皇太子徳仁親王(当時)の満31歳の誕生日に行われた。なお、徳仁親王は天皇明仁の践祚時点(昭和64年1月7日)で成年に達していた。明仁の即位礼正殿の儀(1990年11月)ののち、立太子の礼が行われた。 これに先立つ1月8日の閣議決定により、「立太子宣明の儀」「朝見の儀」「宮中饗宴の儀」が国事行為たる立太子の礼(=国の儀式)として行われることとなった。また、立太子礼のために9400万円が計上され、一方恩赦は行われなかった。 また、湾岸戦争の最中であり、「簡素に」との配慮がなされ、宮中饗宴の儀は大幅に縮小された。クウェート大使は招待されたが、イラク大使は即位礼に続き招待されなかった。特に翌2月24日には地上戦に突入するなど立太子礼当日は極めて緊迫した状況にあり、日本の国会議員20名余りに加え、19か国の大使が欠席する事態となった。 2月19日 勅使発遣の儀(宮殿:竹の間) 2月23日 賢所皇霊殿神殿に親告の儀(宮中三殿) 天皇明仁が立太子の礼を行うことを神前に報告。 立太子宣明の儀(宮殿:松の間) 皇族に加え、海部俊樹首相(第2次海部改造内閣)を始め三権の長、都道府県知事(代理含む)、各国大使ら245名が出席。 天皇明仁は黄櫨染御袍を、皇后美智子は唐衣裳装束の略装を、皇太子は黄丹袍をそれぞれ着用した。 天皇が「宣明」を読み上げ、徳仁親王が皇太子であることを宣言。皇太子徳仁親王が決意の言葉を述べ、続いて海部首相が寿詞(よごと)を朗読して儀式は終了した。 宣明の儀に引き続き、鳳凰の間で、天皇明仁から皇太子となった徳仁親王に壷切御剣が親授された。また、正午には鳳凰の間で国会衆参両院で決議された賀詞が天皇に奏上された。 賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(宮中三殿) 皇太子徳仁親王が装束姿のまま宮中三殿に拝礼。 朝見の儀(宮殿:松の間) 洋装で行われた。皇太子徳仁親王が両親の天皇明仁と皇后美智子に感謝と決意を奏上した後、九年酒を順番に口にし、儀式料理に箸を立てて終了した。 2月24-25日 宮中饗宴の儀(宮殿:豊明殿) この後、皇太子徳仁親王は2月26日に伊勢神宮を、27日に神武天皇陵を、28日に昭和天皇陵をそれぞれ拝礼し、立太子礼の終了を報告した。
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