御趣向の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/14 00:24 UTC 版)
「趣向」とは、財政再建の企画や新規政策の意であり、宗衍は小田切尚足を始めとして「趣向」を持った中級、下級藩士を数多く登用した。 改革の内容は、小田切尚足が宝暦3年(1753年)に記した『報国』に詳しく書かれており、40箇条の政策が記されている:233。以下に代表的な策を挙げる。 資金調達策 才覚 「才覚」は当時の言葉で資金調達の意味。 当時の松江藩は地元商人から融資を受けていたが、財政状況の悪化に伴い、その融資も停止していた。そこで、年貢を担保にして、大坂、京都、尾道などの金融商人の融資を受けた。 泉府方の設置:234 泉府方は、藩営の金融機関。 藩内の豪商や豪農から出資を募り、資金を1割5分の利息で貸し付け、利潤を藩と資金提供主とで折半する。 義田方:234 年貢を一括して先納した場合、一定期間免税するという制度。 新田方:234 新田方は新田を開発する役所。開発した新田は一定期間の免税権と共に売却された。 産業振興策 木苗方(きなえかた) 商品作物の研究、普及を行い新作業を興す役所。 ハゼノキ、薬用人参、木綿、煙草といった特産品の栽培が行われるようになった。 木実方(きのみかた):234 ハゼノキの栽培と、ハゼの実から和蝋燭を製造する役所。 和蝋燭は専売であり、藩内の需要を満たすにとどまらず、他藩へ輸出され大きな利益となった。 釜甑方(ふそうかた):234 宝暦6年(1756年)頃に設置された鍋、釜、包丁といった鉄製品を作って専売する役所。 もともと中国山地のたたら製鉄は、日本全国の総需要の大半をまかなえる規模であったが、原材料のままではなく、加工品として付加価値を加えて販売した。 文教政策 文学所の開設:234 寛延元年(1748年)、荻生徂徠の弟子である宇佐美恵助を江戸藩邸に招いて文学所を開設した。 文明館の設立 宝暦8年(1758年)に藩校である文明館(松江市母衣町)を設立した。 改革の頓挫は、資金不足、債務超過の状態になったためと考えられている。 泉府方は発足3年目で元利償還への不安から資金回転が行き詰まっている:236。
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