御谷騒動・鎌倉風致保存会
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「原実 (市民運動家)」の記事における「御谷騒動・鎌倉風致保存会」の解説
1964年(昭和39年)、鶴岡八幡宮背後(御谷)の開発計画が神奈川県の承認を受ける見込みとなり、町内会を中心に地域住民から反対運動がおこる。「鎌倉の自然を守る会」に対しても協力要請が行われ、会も反対運動に加わった。原は開発計画を阻止すべく永海秋三とともに沢田節蔵の添書を得て内山岩太郎神奈川県知事に面会する。内山は原らの申出に好意的で、法律上開発を許可せざるを得ないが、ただ一つの方法は「市民運動の起こす世論の力」であると述べた。こうした発言を受けて地元町内会は内山知事の現地視察が行われた6月1日までの一週間で、2万を超す署名を集める。知事は現地視察後の記者会見で、原との面会に際しての発言と同趣旨を繰り返した。地域住民は、財団法人鎌倉風致保存会を結成して寄付金を集め、開発予定地の一部買収に成功した。この活動は日本で最初のナショナルトラスト運動である。財団には山本正一鎌倉市長、市議会議長、市商工会議所会頭なども参加し、理事長に藤井崇治、副理事長に村田良策(神奈川県立博物館館長)が就任。理事の野尻清彦は大佛次郎で、他に菅原通済などが、顧問には里見弴、今日出海、横山隆一、有島生馬などが就任している。県は12月に規模を縮小した開発許可を出すが、業者は開発計画を断念した。原はこの御谷騒動での運動を「それまでは勿論今後もないかもしれない強烈な文字どおり死に物狂いの反対運動」と回顧している。
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