御土居下御側組の成立とは? わかりやすく解説

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御土居下御側組の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 21:04 UTC 版)

御土居下御側組同心」の記事における「御土居下御側組の成立」の解説

口に最初に住居構えたのは久道家であった久道家清洲城高麗門門番務めており、高麗門名古屋城移築されると引き続き門番任され、そのすぐ脇の口に住居与えられた。続いて慶安3年1650年)には、口に危急時の脱出用の馬を管理する厩が設けられ乗馬達人であった細野新三郎とその弟子馬場右衛門口に移り住んだ。しかし、脱出経路考えられていた名古屋城北部周辺沼沢地であり脱出手段として馬の使用不適切であったことから、元禄5年1692年)に厩は廃止され細野家は口から去った同年口の東に東矢来木戸ができると、その番所勤務命じられ加藤家入江家口の住民となったこの頃2代藩主光友が天守から口を望み改め口の重要性認識して常駐する警備役の増員指示したといわれている。 8代藩主宗勝の代の宝暦7年1757年)になると、口に屋敷構える家は、大海家など12家が加わって16となっていた。この年に、非常口裏口意味する口」の名は秘密の脱出経路地名としてあまりにあからさまであるため使用厳禁され以後この地域を指す名称として御土居下」が使われるようになった。9代藩主宗睦の代の寛政5年1793年)には、「御土居下御側組同心」として尾張藩職制正式に組み込まれた。その後絶家転居により2家が抜け、4家が新たに加わったため、文政年間1818年-1830年)には18家となり、嘉永年間1848年-1854年)にも3家の入れ替わりがあった。

※この「御土居下御側組の成立」の解説は、「御土居下御側組同心」の解説の一部です。
「御土居下御側組の成立」を含む「御土居下御側組同心」の記事については、「御土居下御側組同心」の概要を参照ください。

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