御土居下御側組の成立
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「御土居下御側組同心」の記事における「御土居下御側組の成立」の解説
鶉口に最初に住居を構えたのは久道家であった。久道家は清洲城で高麗門の門番を務めており、高麗門が名古屋城に移築されると引き続き門番を任され、そのすぐ脇の鶉口に住居を与えられた。続いて慶安3年(1650年)には、鶉口に危急時の脱出用の馬を管理する厩が設けられ、乗馬の達人であった細野新三郎とその弟子の馬場半右衛門が鶉口に移り住んだ。しかし、脱出経路と考えられていた名古屋城の北部周辺は沼沢地であり脱出手段として馬の使用は不適切であったことから、元禄5年(1692年)に厩は廃止されて細野家は鶉口から去った。同年、鶉口の東に東矢来木戸ができると、その番所勤務を命じられた加藤家・入江家が鶉口の住民となった。この頃、2代藩主光友が天守から鶉口を望み、改めて鶉口の重要性を認識して常駐する警備役の増員を指示したといわれている。 8代藩主宗勝の代の宝暦7年(1757年)になると、鶉口に屋敷を構える家は、大海家など12家が加わって16家となっていた。この年に、非常口や裏口を意味する「鶉口」の名は秘密の脱出経路の地名としてはあまりにあからさまであるため使用が厳禁され、以後この地域を指す名称として「御土居下」が使われるようになった。9代藩主宗睦の代の寛政5年(1793年)には、「御土居下御側組同心」として尾張藩の職制に正式に組み込まれた。その後、絶家や転居により2家が抜け、4家が新たに加わったため、文政年間(1818年-1830年)には18家となり、嘉永年間(1848年-1854年)にも3家の入れ替わりがあった。
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