当道に無双
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 02:01 UTC 版)
最大の後援者を失った音阿弥は一時困窮し、私的な勧進能を行うなどしてその打破に努めたとされる。文安元年(1444年)の勧進能では観客席の値段を下げるなどの努力をしている。一方で金春座とともに幕府に訴えて、他座が京で猿楽を舞うのを妨害したりもしている。 しかし義教の子・足利義政が長じて後の享徳元年(1452年)頃からは、その厚遇を受けることになる。応仁の乱の中でも能を見ていたほどの愛好家である義政は音阿弥を高く評価し、再び表舞台に引き上げた。 60歳を迎える長禄2年(1458年)頃には子の又三郎正盛に大夫の座を譲って出家し、以後法名の「音阿弥」を名乗る。この名は観阿弥・世阿弥の後継者としての自負を示すものであろう(一字目を並べると「観世音」となる)。世阿弥同様に出家の後も第一線で活動を続け、寛正5年(1464年)には正盛が義政の後援で行った糺河原での勧進猿楽でも、「邯鄲」「恋重荷」「二人静」「養老」など29番のうち12番でシテを務めている。この催しには義政・日野富子夫妻は無論のこと、関白二条持通、また有力守護大名たちが臨席し、観世座の権威を見せ付けた。同年には後花園院の御前で能を舞い、「老いて益々健在である」と義政を感嘆させた。 とはいえ政情の不安もあり、暮らし向きはそれほど楽でなかったようで、文正元年(1466年)には相国寺の蔭涼軒を訪ね、押し売り同然に小歌・小舞を披露したことが記録に残っている。 翌年(1467年)、死去。一休宗純に帰依してその引導を受けたと『四座役者目録』などに語られるが、疑わしい。墓所は酬恩庵。
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