幼少~官僚時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 04:35 UTC 版)
1300年代からの歴史を持つ久米三十六姓の家系に生まれる。 父の仲井眞元楷は、沖縄戦を避け疎開していた大分県から沖縄戦後の那覇に戻ると、いち早く劇場経営を始め、沖縄芸能連盟の会長を務めた。1973年から79年まで方言ニュースのキャスターを務め、さらに那覇市議会議員や沖縄群島議会の議員を務めた。米国民政府のバージャー民政官と何度も密談し、当時の那覇市長であった瀬長亀次郎の不信任案を成立させるべく米国民政府と画策していたことでも知られている。 1945年に空襲を逃れて家族で大分県南海部郡明治村(後の弥生町→現在の佐伯市)に疎開。翌1946年、両親の出身地である沖縄の那覇市に移住。開南初等学校、那覇教育区立上山中学校、那覇連合教育委員会立那覇高等学校を卒業。成績がトップクラスで特に理数系が得意であった仲井眞は、自動車設計士を目指す。そこで東京大学工学部進学時に国費・自費沖縄学生制度を使い上京した[要出典]。 1961年に東京大学工学部機械工学科を卒業 後、当時の通商産業省に技官として入省。沖縄開発庁沖縄総合事務局通商産業部長、通産省機械情報産業局通商課長、工業技術院総務部技術審議官などを歴任。官僚時代にイタリアに留学経験があるほか、ニューヨークに3年勤務した。
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