市議会議員活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:34 UTC 版)
1947年(昭和22年)、網走の市制施行とともに戦後初の統一地方選挙が行われた。女性が参政権を得て初めての選挙であり、中川は夫に出馬を勧められた。夫の父が網走町議会議員であったことから、当初はその息子である夫に出馬の話が来たが、夫は自分の短気な性格が政治家向きではないとして断り、女性が参政権を得たことで、妻に出馬を勧めたものである。中川本人は気が進まなかったものの、「学歴のない女が選挙に出る」との陰口に憤慨し、出馬を決意した。 選挙運動といっても、知人といえば牧場仲間の女性ばかりで、夫も協力せず、ほかの候補者のような派手な選挙運動はとても無理であった。自転車に乗ってメガホンで呼びかけ、民家を一軒一軒訪ねて家の壁などにポスターを貼らせてもらった。 地道な活動は支持者たちの好評を得、それまでの数奇な経歴も話題を呼び、庶民女性たちにも支持された。同情票も手伝い、定員の3倍の候補者数のうち、当選者27人中25位で当選を果たした。女性立候補者5人中で当選者は1人であり、女性初の網走市議会議員であった。 第1期は下位当選の上、政界では素人同然のために議会から爪はじきにされた。せめて子供の健康をと、子供たちを集めてラジオ体操を始め、自費で買った景品を配った。子供たち相手に名乗った「ばっちゃん」の名が、その後の愛称となった。 その後も連続計7回の当選を果たし、7期28年にわたって市議会議員を務めた。2期以降は上位当選であり、トップ当選も2回果たし、活動が本格化した。議員の傍らで人権擁護委員(後述)、自由民主党北海道支部連合会連婦人部長(後述)、家庭裁判所家事調停委員、網走婦人会長、母子相談員、社会教育委員、防犯協会理事、福祉協会理事、網走市物価監査委員、法律相談員など、多くの公職を歴任した。 なお政界の関係者としては、義弟に東条貞がいる(中川の夫の妹が東条の妻)。中川が長年にわたって中央政界に大きく関ったのは、この東条によるところが大きいと見られている。一方で中川の夫の父は東条を気に入るあまり、多額の選挙資金をつぎ込んでおり、これが前述の膨大な借金の元にもなっていた。
※この「市議会議員活動」の解説は、「中川イセ」の解説の一部です。
「市議会議員活動」を含む「中川イセ」の記事については、「中川イセ」の概要を参照ください。
- 市議会議員活動のページへのリンク