崩壊の予兆と最期とは? わかりやすく解説

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崩壊の予兆と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:44 UTC 版)

孝武帝 (東晋)」の記事における「崩壊の予兆と最期」の解説

太元10年385年)に謝安が、太元13年388年)に謝玄相次いで没したため、謝一族朝廷中心から去り孝武帝成長したこともあって親政するようになり、弟の司馬道子がそれを補佐する体制がとられた。しかし成長した孝武帝次第に酒と女に溺れて国政省みなくなり遂には酒の飲みすぎアルコール中毒に陥り、宮殿の奥に入ったまま酒を飲み続けて醒める時が無く外部の者と接触すらしなくなった。補佐する司馬道子謝安比べ政治能力欠如した暗愚人物で、奢侈な生活により国庫財政破綻招いて東晋孝武帝治世後半から全盛期より急速に衰退していった。 太元21年9月20日396年11月6日)、孝武帝は清暑殿にて後宮女達酒宴開き女楽を侍らせて楽しんでいた。孝武帝には当時寵愛していた張貴人という女性がいたが、張貴人酒宴の席で「お前の年では、そろそろお払い箱にしなくてはな。朕はもう少し若いのが欲しくなったよ」と言った孝武帝にすれば酒に酔って冗談だったといわれるが、張貴人30歳に近い年であったため当時としてはあながち冗談済ませられる年齢でもなく、これを孝武帝自分を廃そうとしていると思い込んでしまった。このためその酒宴が行われた後、孝武帝酔いまわって眠り込むと、張貴人買収され宦官により手引きされた召使により寝所において、眠っているところを孝武帝は厚い布団に息を塞がれ蒸殺された。享年35。 張貴人孝武帝殺害すると、何事も無かったかのように臣下呼び集めて天子様はお休みのところ、にわかにうなされまして、只今息をお引取りなりました」と述べた補佐役の司馬道子暗愚なこともあり、張貴人には罪が問われることが無かった死後皇位長男司馬徳宗安帝)が継いだ極度精神障害児だったため、司馬道子政権握り東晋滅亡の道をひた走り皇族権力大い弱体化していくことになった

※この「崩壊の予兆と最期」の解説は、「孝武帝 (東晋)」の解説の一部です。
「崩壊の予兆と最期」を含む「孝武帝 (東晋)」の記事については、「孝武帝 (東晋)」の概要を参照ください。

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