島流しに至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 09:44 UTC 版)
当時幕府は、元禄文化の過剰な華やかさ、つまり風俗壊乱、特に武士や大名らの綱紀を粛正しようと試みていた感がある。元禄6年(1693年)には「大名および旗本が吉原遊郭に出入りし、遊ぶこと」を禁じている。 島流しに至る経緯については以下のような、いくつか説がある。 1. 為政者の風刺 時の権力者である柳沢吉保が出世する過程で実の娘を将軍綱吉の側室に差し出した、という当時からあったゴシップ的な噂を、一蝶が風刺作品にしたから。代表作『朝妻舟図』(#絵画を参照)が関係している(吉保の妻を遊女に、綱吉を客に見立てたとするもの)とも言われる。 2. 釣りの罪 町人の分際で釣りを行った(武士は修練目的として黙認されていた)ことが、綱吉政権が発令した生類憐れみの令違反とされた(同年、追加条例として“釣り具の販売禁止令”すらも出ている)。 3. 禁句の罪 “馬がもの言う”という歌を広めたから。これは今で言うところの放送禁止歌謡指定である。 4. そそのかしの罪 ある時、いつものように芸で座敷を盛り上げていた際、ある殿様をそそのかし、勢いで花魁を身請け(つまり、武家らしからぬ行状と、巨額浪費)させてしまった。ところがその殿様は将軍・綱吉の母である桂昌院や柳沢吉保の派閥と縁のある六角越前守であったため、その方面の怒りを買った、という話も伝わる(表高家旗本の六角家の当時の当主で「遊郭吉原での狼藉により、元禄10年(1697年)ごろに閉門蟄居命令」が確認される六角広治(越前守)か。広治の母は桂昌院実家の本庄氏出身。またこの六角家は、著名な近江国守護大名の六角氏とは別の家系。公家の烏丸家系。またこれ以外にも掛川藩主井伊直武をそそのかした(遊びで盛り上げた)話なども伝わり、島流しの際は同時に幇間であった村田半兵衛(村田民部)らも流されている)。 5. その他 村田民部との共作『当世百人一首』で将軍綱吉の側室である於伝の方(瑞春院)の舟遊び風景を描いたこと、大名や金持ちの間で当時、石灯籠を集めることが流行った際、それを買い集めて儲けようとした、などの話がある。当時からお騒がせの有名人だったことが窺える。大田南畝が伝えるには、当時禁教とされていた不受不施派に与したため、とされている。 正式な罪状として採用されたのは“釣り罪”であるらしい。
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