島津重豪、斉興のもとでの勤務
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「調所広郷」の記事における「島津重豪、斉興のもとでの勤務」の解説
寛政9年(1797年)11月、調所は翌年春からの江戸詰めを命じられた。翌寛政10年(1798年)1月、調所は鹿児島を立ち江戸へ向かった。2月に江戸に到着した具所は、3月よりまず表茶道所勤めとなった。表茶道所とは藩主付きの茶道所である。そして9月には隠居付奥茶道すなわち前藩主島津重豪付の勤務を命じられる。同月、重豪の名によって笑悦と改名し、その後茶の湯、生花を学ぶよう命じられた。入門料は公費で賄われ、重豪からの内々の援助もあったが、授業料は自前で払わねばならず、江戸生活の始めは経済的に楽ではなかったと考えられている。調所が仕えることになった島津重豪は時の将軍、徳川家斉の岳父であり、将軍岳父である重豪のもとには家斉の父、一橋治済を始め多くの大名らが訪ねてきた。重豪のもとで働くことは若い調所にとって見聞を広めることに繋がったと考えられる。 寛政11年(1799年)12月、調所は休暇のための帰郷を命じられたため鹿児島へ向かった。この帰省時に結婚したと考えられている。結婚後も江戸で隠居付奥茶道の勤めを続けていたが、文化元年(1804年)頃に世子島津斉興付の茶道職に配置換えになったと見られている。 文化5年(1807年)末、調所は長年の妻の病気などを理由として帰郷を申請した。この申請は認められ、調所は約半年鹿児島に滞在する。この間に初婚の妻は病死ないし離婚したものと考えられる。文化8年(1811年)1月には調所は茶道頭に昇進する。翌月には家格も小姓組から一代限りではあるが新番に昇格した。
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