島津討伐に反対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 06:27 UTC 版)
宗麟は土持親成を滅ぼすと家老達を呼び、島津討伐の宣言をした。しかしそれは建前で日向国にキリスト教の王国の建国が目的であった。田北鎮周と角隈石宗が反対意見を提言し他の家老もその意見に賛成する。宗麟は不満の顔をあらわし場を立ち去った。この話を聞いた鎮実は急ぎ、臼杵丹生島城を訪れて宗麟に謁見し「島津と戦っている間に長引けば、龍造寺隆信は必ず蜂起し、毛利輝元は祖父が筑前で負けたことを晴らそうとこの隙を突いて戦いを挑んでくる。そうすれば我が大友は三方を敵に囲まれることになる。そうなればどうされるおつもりか」と宗麟に激しく言い寄った。既に吉岡宗歓、臼杵鑑速はこの世になく、戸次鑑連は遠く筑前国にあり、宗麟に面と向かって意見できるものは皆無に近かった。宗麟と年の近い鎮実は皆の意見を代表する形であったが、この意見も全く宗麟には通じなかった。
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