島津荘地頭職任命の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 22:00 UTC 版)
忠久は鎌倉時代以前は京都の公家を警護する武士であり、親戚は大隅・日向国の国司を務めていた。 出身である惟宗家は近衛家の家司を代々務めた家で、忠久は近衛家に仕える一方で、源頼朝の御家人であった。東国武士の比企氏や畠山氏に関係があり、儀礼に通じ、頼朝の信任を得ていたという。 惟宗家が元々仕えていた近衛家は、平季基から島津荘の寄進を受けた藤原頼通の子孫である関白・藤原忠通の長男・基実を祖とする家であり、鎌倉時代から島津荘の荘園領主となっていた。 また、基実の子である基通については、婚約者であった源義高を殺害された直後の源頼朝の長女大姫を基通に嫁がせる構想があったことが知られており、最終的には実現しなかったものの、この構想に関して忠久の関与の可能性が指摘されている。 こうした源頼朝・近衛家を巡る関係から、島津忠久は地頭職・守護職を得たのではないかと考えられる。 以後、島津家は島津荘を巡って近衛家と長い関係を持つにいたった。
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