島津重豪の放漫財政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 05:06 UTC 版)
もっとも言われる原因がこれである。 鹿児島藩8代藩主・島津重豪は他藩より遅れた自藩の状況に懸念を抱き、計画倒れになっていた藩校・造士館の建立や、天文観測所・明時館や佐多薬園をはじめとする蘭学に関する施設建設、他地域からの商人の招聘などの政策を採った。 しかし、鹿児島藩は江戸時代初期から慢性的に赤字であり、更に先年宝暦治水事業を負わされ莫大な借財を抱えていた。その上での文化事業に加え、鳥見職設置による貴重な生物がいる土地の開発を禁止したいわゆる動植物保護政策により、鹿児島藩は農民ばかりではなく、実質的に開墾で生活している郷士を初めとする武士階級にも高負担を強いる財政構造に転落していった。 しかし、この現状を全く理解していなかった重豪は娘の茂姫を徳川家斉の御台所とし、他の子女も有力大名と縁組みさせた。これらの縁組みは確かに鹿児島藩の地位向上には寄与したものの、つきあいに伴う出費がかさみ、ますます鹿児島藩財政を圧迫した。
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