島津久光との対立
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明治7年(1874年)4月27日、西郷なき政府の安定を図るため、保守派の重鎮である島津久光が左大臣となり、政府の欧化政策を批判・撤回させるべく動きを強めた。久光は幕末以来の親交を持つ華族を動員して政府に圧力をかけ、明治8年(1875年)には太政大臣の権限を左右大臣に譲らせるよう働きかけた。この動きは失敗し、10月19日にはついに久光は実美を辞職させるよう上奏した。久光は親しい有栖川宮熾仁親王に裁定させることで実美の辞職を勝ち取ろうとしたが、宮内卿徳大寺実則は右大臣岩倉に裁定させるべきであるとした。岩倉は実美を支持するべきであると奏上し、久光の弾劾は失敗に終わった。久光は辞表を提出したが岩倉によって差し戻され、10月25日の閣議で正式に免官となった。内田政風、海江田信義、奈良原繁も三条を弾劾したが、いずれも退けられた。 一方この頃三条家の家令達が事業に失敗し、実美は莫大な負債を抱えることとなった。毛利家の支援で破産は免れたものの、三条家が負債を完済するのは明治38年(1905年)のことであった。 久光が去った後の政府は大久保の独壇場となり、実美はその方針をほとんど支持している。参議の間で意見がまとまらない時には大久保はほとんど黙っており、実美に議論の内容を伝えると、実美は大久保の意見はどうかと問うのが常であった。大久保の意見を実美がよしとすると、大久保は実美の意見であると言って参議をまとめていたという。明治11年(1878年)に大久保が暗殺されると、伊藤と大隈重信が実力者となったが、明治十四年の政変で大隈が下野すると、伊藤の独壇場となった。 明治15年(1882年)、大勲位菊花大綬章を受章する。明治18年(1885年)には太政官制が廃止されて、内閣制度が発足したため、内大臣に転じた。この際実美の旧臣尾崎三良は太政大臣辞任の撤回を実美に訴えたが、国家将来のためであり、他に策はないと伝えて撤回しなかった。
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