島津久光との対立とは? わかりやすく解説

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島津久光との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:37 UTC 版)

三条実美」の記事における「島津久光との対立」の解説

明治7年1874年4月27日西郷なき政府安定を図るため、保守派重鎮である島津久光左大臣となり、政府欧化政策批判撤回させるべく動き強めた久光幕末以来親交を持つ華族動員して政府圧力をかけ、明治8年1875年)には太政大臣権限左右大臣に譲らせるよう働きかけた。この動き失敗し10月19日にはついに久光は実美を辞職させるよう上奏した。久光親し有栖川宮熾仁親王裁定させることで実美の辞職勝ち取ろうとしたが、宮内卿徳大寺実則右大臣岩倉裁定させるべきであるとした。岩倉は実美を支持するべきであると奏上し久光弾劾失敗終わった久光辞表提出した岩倉によって差し戻され10月25日閣議正式に免官となった内田政風海江田信義奈良原繁三条弾劾したが、いずれも退けられた。 一方この頃三条家家令達が事業失敗し、実美は莫大な負債抱えることとなった毛利家支援破産免れたものの、三条家負債完済するのは明治38年1905年)のことであった久光去った後の政府大久保独壇場となり、実美はその方針をほとんど支持している。参議の間で意見がまとまらない時には大久保はほとんど黙っており、実美に議論の内容伝えると、実美は大久保意見はどうかと問うのが常であった大久保意見を実美がよしとすると、大久保は実美の意見であると言って参議まとめていたという。明治11年1878年)に大久保暗殺されると、伊藤大隈重信実力者となったが、明治十四年の政変大隈下野すると、伊藤独壇場となった明治15年1882年)、大勲位菊花大綬章受章する明治18年1885年)には太政官制廃止されて、内閣制度発足したため、内大臣転じたこの際実美の旧臣尾崎三良太政大臣辞任撤回を実美に訴えたが、国家将来のためであり、他に策はないと伝えて撤回しなかった。

※この「島津久光との対立」の解説は、「三条実美」の解説の一部です。
「島津久光との対立」を含む「三条実美」の記事については、「三条実美」の概要を参照ください。

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