島津久章殺害事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/18 22:32 UTC 版)
「清泉寺 (鹿児島市)」の記事における「島津久章殺害事件」の解説
島津久章は島津氏の分家の一つである新城島津家の当主であり18代当主島津家久の婿でもあった。寛永16年(1639年)に藩主に就任したばかりの義兄・島津光久の名代として徳川御三家への使者となったが、帰路、宿泊していた京都から突如失踪し、高野山の島津氏菩提寺「蓮金院」にたどり着いたところを捕縛されて薩摩に護送された。その後川辺宝福寺に幽閉されていたが後に末寺である清泉寺に移された。正保5年(1645年)久章は流刑処分と決まり、藩の護送役人が迎えに来たところで乱闘となり久章以下家臣は全員死亡した。久章の遺骸は清泉寺の境内に葬られ、現在も墓石が残っている。 後の史料では「島津久章が紀州徳川家を訪問した際に籠から降りなかった無礼を島津光久が聞いて逆鱗に触れたため」などと書かれているが、事件の本当の背景には島津義久の晩年から浮上していたお家騒動があったのではとする説が有力である。
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