島尾敏雄との出会いとは? わかりやすく解説

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島尾敏雄との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 14:16 UTC 版)

島尾ミホ」の記事における「島尾敏雄との出会い」の解説

加計呂麻島帰ってきたミホは、青年団活動参加するなどの例外除けば、ほとんど何もせずに家で過ごしていたという。その後徴用逃れ半年ほど押角郵便局勤め1944年昭和19年11月押角国民学校代用教員となった。この直前1944年7月には、養母吉鶴が貝採り中に磯で亡くなっていた。 加計呂麻には日本の「海軍特別攻撃隊」(特攻隊)の基地があり、ここへ大日本帝国海軍震洋特攻隊長として1944年昭和19年11月赴任してきたのが島尾敏雄であった。ふたりが初め出会ったのは、ミホによれば1944年12月のことであったその後九州帝国大学文科卒業していた敏雄が、大平家蔵書を度々借りに来たことで交流始まった。敏雄が赴任した頃には太平洋戦争は既に末期であり、赴任翌年1945年には沖縄戦激化して集団自決起き始めていた。日本敗色濃かったが、戦時下本土決戦目前にして軍人はどこでも大切に扱われる時代でもあった。特攻隊である敏雄の隊が応戦することは無かったが、押角・呑之浦は空襲被害少なかったこともあり、これらの集落では、敏雄をはじめとした島尾隊に守られているといった考え広まっていた。敏雄は「隊長さま」と慕われ部隊施設があった場所は、戦後でも「シマオタイチョウ」と呼ばれるほどだったという。ミホ後々まで、白い海軍正装姿の若き日の敏雄・「隊長さま」の写真を、大切に自室掲げた。「トシオただの人でも、隊長さま』は、神さまでした」とミホ述懐している(小栗康平談『御跡慕いて』 新潮2006年9月号参考)。 ミホと敏雄は文通部隊近く浜辺での逢い引き重ねるようになり、戦況悪化して集落人々が夜を疎開小屋明かすようになってからは、文一郎をその小屋送り大平家で夜を過ごすこともあった。また、終戦間近に昼間から文一郎を小屋へ送ることもあったという。敏雄に出撃命令出た後、ミホ集落集団自決には加わらず、浜で敏雄の出撃見送ってから短剣自決しようと考えていたが、結局出撃行われないまま終戦迎えた。この時ミホが敏雄に宛てて出した手紙以下の通りである。 北門の側まで来てます。ついてはいけないでせうか。御目にかゝらせて下さい御目にかゝらせて下さいなんとかして御目にかゝらせて下さい決して取乱したりいたしません。 八月十三日真夜 ミホ敏雄様 — 大平ミホ1945年8月13日

※この「島尾敏雄との出会い」の解説は、「島尾ミホ」の解説の一部です。
「島尾敏雄との出会い」を含む「島尾ミホ」の記事については、「島尾ミホ」の概要を参照ください。

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