島尾敏雄との出会い
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加計呂麻島に帰ってきたミホは、青年団の活動に参加するなどの例外を除けば、ほとんど何もせずに家で過ごしていたという。その後徴用逃れで半年ほど押角郵便局に勤め、1944年(昭和19年)11月に押角国民学校の代用教員となった。この直前の1944年7月には、養母・吉鶴が貝採り中に磯で亡くなっていた。 加計呂麻には日本の「海軍特別攻撃隊」(特攻隊)の基地があり、ここへ大日本帝国海軍の震洋特攻隊長として1944年(昭和19年)11月に赴任してきたのが島尾敏雄であった。ふたりが初めて出会ったのは、ミホによれば1944年12月のことであった。その後、九州帝国大学文科を卒業していた敏雄が、大平家の蔵書を度々借りに来たことで交流が始まった。敏雄が赴任した頃には太平洋戦争は既に末期であり、赴任翌年の1945年には沖縄戦が激化して集団自決も起き始めていた。日本の敗色も濃かったが、戦時下の本土決戦を目前にして軍人はどこでも大切に扱われる時代でもあった。特攻隊である敏雄の隊が応戦することは無かったが、押角・呑之浦は空襲被害が少なかったこともあり、これらの集落では、敏雄をはじめとした島尾隊に守られているといった考えが広まっていた。敏雄は「隊長さま」と慕われ、部隊の施設があった場所は、戦後でも「シマオタイチョウ」と呼ばれるほどだったという。ミホは後々まで、白い海軍の正装姿の若き日の敏雄・「隊長さま」の写真を、大切に自室に掲げた。「トシオはただの人。でも、『隊長さま』は、神さまでした」とミホは述懐している(小栗康平談『御跡慕いて』 新潮2006年9月号参考)。 ミホと敏雄は文通や部隊近くの浜辺での逢い引きを重ねるようになり、戦況が悪化して集落の人々が夜を疎開小屋で明かすようになってからは、文一郎をその小屋へ送り、大平家で夜を過ごすこともあった。また、終戦間近には昼間から文一郎を小屋へ送ることもあったという。敏雄に出撃命令が出た後、ミホは集落の集団自決には加わらず、浜で敏雄の出撃を見送ってから短剣で自決しようと考えていたが、結局出撃は行われないまま終戦を迎えた。この時ミホが敏雄に宛てて出した手紙が以下の通りである。 北門の側まで来てゐます。ついてはいけないでせうか。御目にかゝらせて下さい、御目にかゝらせて下さい、なんとかして御目にかゝらせて下さい、決して取乱したりいたしません。 八月十三日真夜 ミホ敏雄様 — 大平ミホ、1945年8月13日
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