岸淸一とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 作家 > 歌人 > 歌人 > 岸淸一の意味・解説 

きし‐せいいち【岸清一】


岸清一

岸清一の俳句

峰雲の上に鯖雲八ケ岳
強情の手相を点す秋螢
曼珠沙華百萬本の奢りかな
母在せば百歳颶風来ては去り
酔眼や大き守宮と睨み合ふ
 

岸清一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/29 15:48 UTC 版)

岸 清一
きし せいいち
岸清一
生年月日 慶応3年7月4日
1867年8月3日
出生地 出雲国松江雑賀町
没年月日 (1933-10-29) 1933年10月29日(66歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学英法科

在任期間 1932年3月15日 - 1933年10月29日
テンプレートを表示

岸 清一(きし せいいち、慶応3年7月4日1867年8月3日) - 1933年昭和8年)10月29日)は、日本弁護士政治家国際オリンピック委員会(IOC)委員。日本の体育スポーツ界発展のため尽力し、“近代スポーツの父”として慕われた。法学博士

生涯

慶応3年7月4日1867年8月3日)、松江雑賀町(現在の島根県松江市雑賀町)に松江藩の下級武士・岸伴平の次男として生まれる。小学校時代の同級生に若槻禮次郎(第25代・第28代内閣総理大臣)がいる。岸と若槻は血のつながりはないが、近い親類だった[注釈 1][1]

松江雑賀小学校、島根県第一中学校(現在の島根県立松江北高等学校)、大学予備門を経て東京帝国大学法科大学英法科に進学。

1889年(明治22年)7月に東京帝大を卒業後、代言人免許を受け、岸法律事務所を東京の京橋に設置。1893年(明治26年)に制度改正により弁護士となる。

法律の調査・視察の為に数回の渡欧後、1910年(明治43年)10月に法学博士となった。1915年(大正4年)、東京弁護士会会長に就任。1927年(昭和2年)には第一東京弁護士会会長に就任するなど法曹界の重鎮であり、特に民事訴訟法の権威であった。

1932年(昭和7年)3月15日には勅選の貴族院議員となり[2]、死去まで務めた。

1933年(昭和8年)10月29日、病気のため死去。66歳没。

日本スポーツ界の功労者

岸記念体育会館
日本スポーツ協会にある「岸清一先生」の像(2019年6月25日撮影)

岸はまた、日本スポーツ界発展に尽くした人物として知られる。岸は東京帝国大学在学中には漕艇で活躍した。

1911年(明治44年)に大日本体育協会(日本体育協会)が嘉納治五郎によって設立された際には維持員として参画し、1916年(大正5年)には副会長に就任。1921年(大正10年)3月に第2代会長に就任した。

1920年(大正9年)6月には日本漕艇協会(日本ローイング協会)初代会長に就任した(1921年(大正10年)6月まで、以降は顧問となる)。

1924年(大正13年)6月 国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任し、死去するまで務めた。また野津謙専務理事(後に日本サッカー協会(JFA)会長)と共に大日本蹴球協会(のちのJFA)の国際サッカー連盟(FIFA)加盟(1929年)にも尽力した。

1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルスオリンピックにはIOC委員として参加している。

1924年(大正13年)3月に紺綬褒章を受章した。岸の故郷である松江市の島根県庁には岸の銅像があり、1964年に除幕式が行われた際には当時のIOC会長であったアベリー・ブランデージが自ら出席し、『東京オリンピックの開催は岸の偉業である』と讃辞を述べ、岸の功績を讃えた[3]

岸の死後に遺言により100万円の寄付がなされ、1940年(昭和15年)にお茶の水[注釈 2]岸記念体育会館が建設され、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催を機に同年7月に渋谷の代々木に移転された。2018年平成30年)11月8日、日本スポーツ協会理事会で岸記念体育会館を新国立競技場の隣接地に移転し「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」と名称を改めることとなり、館内に「岸清一メモリアルルーム」が設けられることが決定した[4]

2019年(平成31年)4月6-7日、岸清一の胸像が同月30日に竣工した「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」の前に岸記念体育会館から移設された[5]

岸の故郷である松江市では岸の名を冠した『岸清一賞 国際文化観光都市 まつえレディースハーフマラソン』大会が毎年3月に開催され[6]、毎年7月下旬には『岸清一記念 松江市民レガッタ』大会が開催されている[7]。また岸が漕艇選手出身だったということで松江市に2019年3月、『岸清一記念艇庫』が建てられオープンした[8]

関連作品

脚注

注釈

  1. ^ 岸の母と若槻の継母が姉妹、また岸の姉が若槻の異父兄の妻である。
  2. ^ 現在のJR御茶ノ水駅近く聖橋の向かいにあり、2007年まで日立製作所本社があった。

出典

  1. ^ 若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 3-21頁
  2. ^ 『官報』第1561号、昭和7年3月16日。
  3. ^ 出典:1998年2月26日朝刊 朝日新聞
  4. ^ “移転後の名称決まる=競技団体入居の岸記念体育会館”. 時事通信. (2018年11月8日). https://web.archive.org/web/20181119091903/https://www.jiji.com/jc/pyeongchang2018?s=news&k=2018110801163 2018年11月18日閲覧。 
  5. ^ 岸記念体育会館 岸清一像の清掃を実施』(プレスリリース)日本スポーツ協会、2019年4月5日https://www.japan-sports.or.jp/news/tabid92.html?itemid=39462019年6月28日閲覧 
  6. ^ 第40回記念 岸清一賞 国際文化観光都市 まつえレディースハーフマラソン』(PDF)(プレスリリース)国際文化観光都市 まつえレディースハーフマラソン実行委員会事務局http://www.matsue-ladies-half.com/outline/img/outline.pdf2019年8月31日閲覧 
  7. ^ 岸清一記念 松江市民レガッタ” (HTML). 松江市民レガッタ実行委員会. 2019年8月31日閲覧。
  8. ^ "岸清一の故郷、松江に艇庫". カナロコ. 神奈川新聞社. 30 March 2018. 2018年8月31日閲覧

外部リンク

先代
嘉納治五郎
日本体育協会会長
第2代:1921年 - 1933年
次代
大島又彦



岸淸一と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「岸淸一」の関連用語

岸淸一のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



岸淸一のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
現代俳句協会現代俳句協会
Copyright(C) 現代俳句協会
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの岸清一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS