山口伊豆守重信の墓
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江戸時代初期、大久保忠隣の失脚事件(大久保長安事件)に巻き込まれた山口重信の墓が境内にある。山口家は上総国・武蔵国・下野国に1万5000石を持つ大名であったが、1613年(慶長18年)、(当主)山口重政の(嫡男)山口重信の婚姻が、無許可であるとして幕府に咎められた。この婚姻の相手が、当時幕府で権勢を誇っていた大久保忠隣の養女であり、この事件の裏には大久保忠隣の政敵であった本多正信がいるとも、徳川家康がいるとされる。ただし、それを証明する明確な資料は存在しない。いずれにせよ、この事件をきっかけに大久保忠隣は失脚。山口重政・重信親子は改易され、龍穏寺に蟄居する。 重政の山口家再興にかける執念は凄まじく、翌年に大坂の陣が始まると、徳川家康に対して「自らが豊臣氏に与した後、豊臣秀頼を暗殺するのでその代償として御家再興を許してほしい」と進言している。しかし、これは家康によって拒絶された。そこで、1614年(慶長19年)、大坂冬の陣に伴い戦功を立てようと父子共に大坂に向かうが、箱根の関所で止められたため龍穏寺に引き返す。龍穏寺に戻った重政は、重信に関所の通過が容易な商人の扮装をさせ、東山道経由で大坂に赴かせる。しかしこの時、既に大坂の陣の和議が成立していたため、重信は再び龍穏寺へ引き返した。 そして1615年(慶長20年)、大阪夏の陣ではついに参戦を許され、井伊直孝の軍に属して若江の戦いへ赴く。山口親子は御家再興のため奮戦し、重信は敵5騎を討ち取る活躍を見せたが、木村重成に討ち取られ(享年26歳)、弟・重克も戦死した。しかしこの戦いの戦功もあり、重政は1628年(寛永5年)、常陸国牛久藩1万5千石の大名に返り咲き、さらに奏者番に任じられた。 以上の経緯は江戸時代には既に知られていたようで、1830年(文政13年)成立の『新編武蔵風土記稿』には 新編武蔵風土記稿(大日本地誌体系版)原文こゝに又山口周防守重政なるもの當寺に居りしと云…一萬五千石を領せしが、同十八年故有て罪を得、當郡越生の庄龍穏寺に隠居り同一九年大阪御陣の時、重政其子伊豆守重信を携へ、ひそかに其役にをもむかんとして、箱根の關に至るとき、關守是を通さず依て又龍穏寺にかへり、重信を商人の體に粧ひ立て出せしが、已に御和睦調しかば重信又當所にかへりしとありされば山口父子當寺に寓居せしこと疑ひなけれど、住僧に問ふにつまびらかならず 意訳山口周防守重政という者が、当寺に居たという。1万5000石を所領していたが、慶長18年、訳あって有罪となり、龍穏寺に蟄居していた。同19年、大阪の役の時、重政はその子・伊豆守重信を携え、密かに大阪へ向かった。しかし箱根の関守がこれを通さなかったので龍穏寺へ戻り、今度は重信を商人の恰好に扮装させ送り出したが、既に和睦が成っていたので、重信は戻って来た、とあり山口父子が当寺に居た事に疑いは無いが、住職にこの話を聞いても、詳細は明らかにならなかった。 と書かれている。この話の真偽は長らく不明であったが、1998年(平成10年)になって越生町教育委員会の発掘調査により、重信の墓が境内の石垣の基礎石となった状態で発見された。この墓は重信の三回忌の年に父・重政が建てた事が判明し、自然石をそのまま利用した質素な作りの墓となっている。これは、墓が作られた時点で重政がまだ蟄居中であったためと推測されている。
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