小谷部『成吉思汗ハ源義經也』に対する反応
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「義経=ジンギスカン説」の記事における「小谷部『成吉思汗ハ源義經也』に対する反応」の解説
大正13年(1924年)の小谷部の著書『成吉思汗ハ源義經也』は「判官びいき」の民衆の心をつかんで大ベストセラーになり、多くの日本人の間に「成吉思汗=義経」伝説を爆発的に広めることになった。同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、増補版も出版されたが、この本が歴史家には相手にされない一方で、広く民衆に受け入れられた背景として、単に判官びいきの心情だけではなく、日本の英雄が大陸に渡って世界を征服したという物語が、日本が日清戦争、日露戦争を経て「満蒙こそ日本の生命線」と考える人びとの心をとらえ、シベリア出兵をおこなっていた時期の風潮に適合したことが指摘されている。また、ブームの背景としては、大衆の政治参加の進展や中間層の形成、中等教育の普及などにともなう文化の大衆化も掲げられる。さらに、発表された大正13年が関東大震災(1923年)の惨禍のあった翌年にあたることから、絶望に打ちひしがれた人びとを慰撫し、復興にたずさわる人々を鼓舞する意味合いもあったと考えられる。 これに対し雑誌『中央史壇』(第10巻第2号 1925年 320. 4-265,国史講習会)は『成吉思汗は源義経にあらず』と題して臨時増刊号を組み、国史学、東洋史学、考古学、民俗学、国文学、国語学・言語学など当時第一級の研究者たちがこの説に対し大々的に反論を行った。 特に言語学の金田一京助、漢学者で歴史学者の中島利一郎らの批判は激しく、金田一京助は小谷部説を「小谷部説は主観的であり、歴史論文は客観的に論述されるべきものであるとし、この種の論文は「信仰」である」と全面否定した。また中島利一郎の場合の反論はさらに激しく、小谷部論をひとつずつ考証して反論し、最後には、「粗忽屋」「珍説」「滑稽」「児戯に等しい」という言葉を用いて痛罵している。
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