小山氏の乱と小田氏
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そんな折の康暦2年/天授6年(1380年)に勃発した小山義政の乱は、後の小田氏の乱について記された『鎌倉大草紙』にも「小田入道恵尊(孝朝)は、先年小山退治の先手に参り、忠功の人也」と記されているように、小田孝朝にとっては戦功をあげて旧領を回復する好機であった。ところが、戦いの最中である永徳2年/弘和2年(1382年)の1月に鎌倉公方足利氏満の師で当時京都にいた義堂周信が将軍足利義満に大きな影響力を持つ兄弟子の春屋妙葩との会談で小田氏の件が話題に上がったと記されている(『空華日用工夫略集』永徳2年正月7日条)。当時、鎌倉府と小山義政の間で和平の交渉が進められる一方で、足利氏満が小山氏を滅ぼすことに積極的であったという状況において、先手の武将である小田氏が政治工作に動くとすれば、小山氏及び義政の助命問題であったと考えられている。小田氏にとって隣接する当時の東国有数の武家であった小山氏の存在は軍事的脅威である一方で、当時鎌倉府が進めてきた東国諸大名の勢力削減路線の対象に真っ先になりうる存在であった。ところが、その小山氏が滅亡に追い込まれた場合に次の標的になる可能性が最も高かったのが元南朝方で室町幕府中央とのつながりで旧領回復につとめてきた小田氏であるとみられた。そのため、小山氏の滅亡は小田氏にとっては他人事ではなかったのである。 だが、最終的に足利氏満は小山義政を討って小山氏を滅ぼすことを決断した。小田氏はこれによって恩賞を得て、ほぼ全盛期に匹敵する所領を回復こそしたものの、鎌倉府からの政治的圧力に対する防波堤となる小山氏は消滅し、同氏が就いていた下野国の守護職は鎌倉府の側近であった木戸法季が任じられ、実質上同国は鎌倉府の直接的な支配地となった(ただし、宇都宮氏や那須氏の支配地は除く)。『鎌倉大草紙』では小田氏の乱の遠因を小山義政の乱の恩賞の少なさをあげているが、それ以上に鎌倉府の勢力と直接隣接したことの方が小田氏にとっては不満と脅威を感じさせるものであったと考えられている。そして、実際に至徳2年/元中2年(1385年)頃より鎌倉府は小田氏が回復を目指した旧領でなおかつ小田氏の本拠地の目と鼻の先にあった信太荘や田中荘の一部が関東管領である上杉氏一門に与えて、小田氏の旧領回復路線への牽制と同氏への軍事的圧力が加えられたのであった。
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