小山氏の乱と小田氏とは? わかりやすく解説

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小山氏の乱と小田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/01/21 02:17 UTC 版)

小田氏の乱」の記事における「小山氏の乱と小田氏」の解説

そんな折の康暦2年/天授6年1380年)に勃発した小山義政の乱は、後の小田氏の乱について記された『鎌倉大草紙』にも「小田入道恵尊(孝朝)は、先年小山退治先手参り、忠功の人也」と記されているように、小田孝朝にとっては戦功をあげて旧領回復する好機であった。ところが、戦い最中である永徳2年/弘和2年1382年)の1月鎌倉公方足利氏満の師で当時京都にいた義堂周信将軍足利義満大きな影響力を持つ兄弟子春屋妙葩との会談小田氏の件が話題上がった記されている(『空華日用工夫略集永徳2年正月7日条)。当時鎌倉府小山義政の間で和平交渉進められる一方で足利氏満小山氏を滅ぼすことに積極であったという状況において、先手武将である小田氏政治工作に動くとすれば小山氏及び義政助命問題であった考えられている。小田氏にとって隣接する当時東国有数武家であった小山氏存在軍事的脅威である一方で当時鎌倉府進めてきた東国諸大名勢力削減路線対象真っ先になりうる存在であった。ところが、その小山氏滅亡追い込まれ場合次の標的になる可能性が最も高かったのが元南朝方で室町幕府中央とのつながり旧領回復つとめてきた小田氏であるとみられた。そのため、小山氏滅亡小田氏にとっては他人事ではなかったのである。 だが、最終的に足利氏満小山義政討って小山氏を滅ぼすことを決断した小田氏はこれによって恩賞得て、ほぼ全盛期匹敵する所領回復こそしたものの、鎌倉府からの政治的圧力対す防波堤となる小山氏消滅し同氏就いていた下野国守護職鎌倉府側近であった木戸法季が任じられ実質同国鎌倉府直接的な支配となった(ただし、宇都宮氏那須氏支配地は除く)。『鎌倉大草紙』では小田氏の乱遠因小山義政の乱恩賞少なさをあげているが、それ以上鎌倉府勢力直接隣接したことの方が小田氏にとっては不満と脅威感じさせるものであった考えられている。そして、実際に至徳2年/元中2年1385年)頃より鎌倉府小田氏回復目指し旧領なおかつ小田氏本拠地目と鼻の先にあった信太荘や田中荘の一部関東管領である上杉氏一門与えて小田氏旧領回復路線への牽制同氏への軍事的圧力加えられたのであった

※この「小山氏の乱と小田氏」の解説は、「小田氏の乱」の解説の一部です。
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