小山氏の復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 03:26 UTC 版)
小山氏は小山義政の乱の後、嫡流が断絶し、庶流の結城氏から小山泰朝を当主に迎えることによってかろうじて存続を許されていた。泰朝の次男・氏朝が伯父の結城満広の養子に迎えられるなど、小山氏と結城氏とは引き続き親密な関係にあったが、長男・満泰の子の小山持政(氏朝の甥)の代になると、小山氏は勢力を盛り返し、結城氏から離れて独自路線をとるようになり、室町幕府と鎌倉府が対立した永享9年(1437年)の永享の乱では鎌倉公方・足利持氏に味方した結城氏に敵対し、幕府方に味方した。 永享の乱で持氏が敗死したが、結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟を擁して永享12年(1440年)に結城城で幕府に対する兵を挙げた(結城合戦)。この時、結城氏が一族の惣領的な地位にいたため一族の多くは結城方として幕府軍と戦ったが、持政は幕府軍に味方して活躍した。結城合戦は幕府軍の勝利で結城氏は没落した。合戦後、持政は下野守に任ぜられるなど自立した。嘉吉元年(1441年)に義政以来、久方ぶりに下野守護に復帰し小山氏は宗家断絶後の復興を成し遂げたのである。
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