小山氏出自説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 11:28 UTC 版)
公頼を小山政光の子である宇都宮公重の子とし、氏家氏を創始したとするのがこの説で、長州藩の家臣団の古文書・系図を収録した『萩藩閥閲録』(享保10年(1725年)成立)の草刈文書の中に記されたものである。小山政光の四男に公重(備前守、宇都宮三郎、右衛門尉、掃門頭、従五位下出羽守)がいて、宇都宮朝綱の養子となり、元久元年(1204年)に47歳で亡くなったとするが、この公重の次男が安芸守基秀で、基秀が公頼を名乗り、氏家氏を創始したという。この説を裏付けるものとして、『尊卑分脈』の宇都宮系図で、この宇都宮系図に公頼の名は見えないが、宇都宮朝綱の子として公重の名が見える。しかしながら、これ以外に裏付ける資料はなく、また小山氏の系図を見ると、政光の子に公重の名は見えない(但し、四男に重光という子はいるため、同じ『重』の字の名から関連性を完全に否定する事は出来ない)ため、この説はあまり有力とはされていない。
※この「小山氏出自説」の解説は、「氏家公頼」の解説の一部です。
「小山氏出自説」を含む「氏家公頼」の記事については、「氏家公頼」の概要を参照ください。
- 小山氏出自説のページへのリンク