小山氏の再興
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義政の死後は一時木戸法季が下野守護となったが、若犬丸の祇園城奪還が防げなかったことから、小山氏と同族で旧小山領を与えられていた下総結城氏を守護とすることにしたが、小山氏旧臣や領民の新体制への不満と動揺は収まらなかった。そこで、足利氏満は守護となった結城基光の次男泰朝をもって小山氏を再興させることを決めたのである。時期は不明であるものの、若犬丸とその子供たちの滅亡によって小山氏嫡流が断絶した応永4年から氏満が急死した応永5年(1398年)11月までの短期間の間の決定であったと考えられている。氏満死去の翌年である応永6年(1399年)には新しい鎌倉公方足利満兼及び関東管領上杉朝宗のもとで結城・小山・宇都宮などの諸氏が関東八屋形に選ばれたとされており(『足利治乱記』)、鎌倉府に忠実な勢力としての新たな小山氏が確立されていく過程を窺い知ることが可能である。 一方、氏満は小山氏の滅亡によって太田荘や下河辺荘などを御料所として編入することに成功し、鎌倉府の財政基盤を強化できただけではなく、北関東や奥州進出に必要な拠点の確保に成功した。後に鎌倉公方が享徳の乱によって両荘に近い古河に移って関東管領や室町幕府に対抗することを可能としたのも、同荘が持つ経済力に支えられていた部分が大きい。更に若犬丸追跡の過程で、陸奥・出羽両国を管国に加えることに成功し、その勢力を大きく伸ばすことに成功した。しかし、それは関東・奥羽の領主達と幕府から鎌倉府に対する新たな警戒を招き、東国の情勢は以後長期にわたって不安定な時代を迎えることになった。
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