導入から駄知線廃止まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/17 17:36 UTC 版)
「東濃鉄道モハ110形電車」の記事における「導入から駄知線廃止まで」の解説
駄知線は本形式の導入翌年、1965年(昭和40年)度に一日平均輸送人員が過去最高の12,878人を記録した。そのような状況下、本形式は東濃鉄道唯一の2両固定編成を組成する、最も収容力の高い大型車として重用された。もっとも、同時期にはモータリゼーションの影響が顕著となり、同年をピークに駄知線の輸送人員は年々減少の一途を辿った。 その後、駄知線は1972年(昭和47年)7月13日の昭和47年7月豪雨にて土岐津 - 神明口間の土岐川に架かる土岐川橋梁が流失、全線で運行休止となった。以降、本形式も駄知線所属の他形式同様に休車となった。 詳細は「東濃鉄道駄知線#水害による路線廃止」を参照 約2年間の営業休止期間を経て復旧は断念され、1974年(昭和49年)10月21日付で駄知線は全線廃止となった。運行再開を見越して保管されていた本形式を始めとする駄知線所属の全車両も、同日付で除籍された。 廃線後1年余を経過した1975年(昭和50年)に、111編成が総武流山電鉄へ、112編成が名古屋鉄道(名鉄)へそれぞれ譲渡された。当時の東濃鉄道は名鉄傘下のグループ企業となっており、東濃鉄道からの車両の引き受け要請を受諾する形で、当時としては極めて異例となる、中小私鉄から大手私鉄である名鉄への譲渡が決定したという経緯を有する。 また、両社への譲渡に際しては、111編成・112編成とも名鉄鳴海工場にて各種改造が施工されている。
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