家族法分離論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
1878年(明治11年)6月、モンテネグロ公国一般財産法典の起草者ヴァルタザール・ボギシッチ(英語版)と松方正義(断行派)がパリで会見、仏民法典の全面継受に反対し、親族・相続法は民法典から分離すべきとの主張は直接には採用されなかったが、その日本人起草に反映した可能性がある。 支配的見解によれば、相続法は財産法に属する。しかし私は…家族法に引き受けるべきと考える。…セルビアとクロアチア…の近時の立法にも見出される。…サヴィニーは、19世紀の前半…の学問が民法の編纂に堪えなかったと主張したけれども…スラブにおける国民的な家族の諸要素に関するものについて、私は今日彼のように考えることができると思う。…かくして、「民法典」というあまりにもあいまいな呼称は…「一般財産法典」によって置き換えられた。 — ボギシッチ この主義は、その後の欧州やイスラム教国にも支持するものがある。もっとも、同国は農業国かつ部族社会だったため、南スラヴ人伝統の家父長制・大家族制に基づく家族共同体を社会の基本単位に据え、それに基づく若干の家族法規定を置いている。 後世では、民法典で規制される家族生活の範囲を最小限にすべきというのがまさに民法延期論の中核だったとの理解が主張される一方で、家族法を含むことは仏独両民法典がそうであるため新旧両民法の起草者に当然視され全く問題にされていないと主張する法学者もいる。 例へば人事編の如きは即ち之を民法に入れると云ふことは甚だ宜しくない、即ち国家の主義を以てしなければならぬと云ふ議論もございます、是等の学者は沢山あることであります。 — 大木喬任、第3回帝国議会貴族院演説
※この「家族法分離論」の解説は、「民法典論争」の解説の一部です。
「家族法分離論」を含む「民法典論争」の記事については、「民法典論争」の概要を参照ください。
- 家族法分離論のページへのリンク