家族・子孫・親族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 16:17 UTC 版)
「尾高惇忠 (実業家)」の記事における「家族・子孫・親族」の解説
父:尾高勝五郎(保孝)(安政5年(1858年)没 56歳) 母:やへ(明治元年(1868年)没 62歳) - 渋沢宗助(政徳)の娘 先妻:きせ(き世)(明治8年(1875年)没 40歳)長男:尾高勝五郎(保志)(32歳没) 長女:勇(ゆう)(万延元年(1860年) - 大正12年(1923年)) - 永田清三郎の妻 次女:ノブ(明治19年(1886年)没) - 木村清夫の妻 三女:トヨ(大正9年(1920年)没 56歳) - 朝山義六の妻 次男:尾高次郎(勝忠)(慶応2年(1866年) - 大正9年(1920年)) - 尾高幸五郎(同族の親類で惇忠の妹婿)の養子 四女:イキ(昭和4年(1929年)没 62歳) - 斎藤精一の妻 五女:コト(明治38年(1905年)没 33歳) - 尾高定四郎の妻 養子:尾高定四郎(さだしろう / ていしろう)(明治3年(1870年) - ?) - 旧姓青木、コトと結婚し、婿養子として勝五郎保志に代わり惇忠の跡を継ぐ 後妻:よし(明治43年(1910年)没 76歳) 弟妹みち - 大川修三の妻 こう(幸子) - 岡部氏の妻 尾高長七郎(弘忠)(天保7年(1836年) - 明治元年(1868年)) 千代(明治15年(1882年)没 42歳) - 渋沢栄一の妻 くに(明治39年(1906年)没 63歳) - 尾高幸五郎の妻 渋沢平九郎(昌忠)(弘化4年(1847年) - 慶応4年(1868年)) - 渋沢栄一の養子 主な甥・姪:大川平三郎、穂積歌子、渋沢篤二 主な母方親族おじ:渋沢宗助(徳厚)、渋沢市郎右衛門、渋沢文左衛門 従弟:渋沢成一郎、渋沢栄一、須永伝蔵、渋沢市郎、諸井恒平、諸井春畦、諸井四郎、諸井六郎 長女の勇(ゆう)は上述の通り、富岡製糸場の最初の工女である。次男で勇の弟の尾高次郎は漢学者・銀行家で、渋沢栄一の庶出子である文子を妻とした。文子の同母妹の夫である大川平三郎は、惇忠の長妹みちの子で、神道無念流の剣豪大川平兵衛の孫である。 渋沢栄一と共通の孫(次郎と文子の子)には、郷土教育家の尾高豊作、法哲学者の尾高朝雄、東洋美術研究者の尾高鮮之助、社会学者の尾高邦雄、作曲家・指揮者の尾高尚忠がいる。曾孫には、作曲家で同名の尾高惇忠とその弟で指揮者の尾高忠明、また経済学者の尾高煌之助、東京女学館短期大学学長を務めた久留都茂子、会計学者の諸井勝之助(渋沢家の縁で惇忠や栄一の従甥にあたる諸井貫一の婿養子)らがいる。 三妹の千代は渋沢栄一の最初の妻となった。その娘・歌子と穂積陳重の長女は栄一の甥(両親とも惇忠のいとこ)の渋沢元治に嫁いだ。同じく三女は市河三喜に嫁ぎ、その一人娘は野上豊一郎・野上弥生子の三男と結婚、娘に長谷川三千子がいる。同じく四男の穂積真六郎の妻と、尾高朝雄の妻は、それぞれ芳賀矢一の次女と四女である。
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